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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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韓国と朝鮮半島の歴史を知る

日本は、最も近い国のひとつとして、昔から関わりが強い。韓国の歴史を知ることは、その関係を理解していくことでもある。

古朝鮮〜新羅の統一 紀元前108〜936年

神話と史実が混在する古代。さまざまな民族の交流によってはぐくまれた古朝鮮から、高句麗・百済・新羅の三国時代を経て、統一新羅まで。

神話と史実から成り立つ古朝鮮

朝鮮古代史の場合、諸民族による流動的な交流が盛んだったこともあり、さまざまな説があるのが特徴だ。禅僧・一然が著した古代史書『三国遺事』には、檀君神話について詳しく書かれている。考古学研究によれば、始祖、檀君に象徴される古朝鮮の起源は、朝鮮半島に鉄器文明が広がる紀元前5世紀(紀元前2333年とする説も)。「檀君朝鮮」と、中国の殷の箕子が建国したとされる「箕子朝鮮」および中国の燕から亡命した衛満が建国した「衛氏朝鮮」の3王朝を一括して「古朝鮮」と呼ぶ。

三国時代の鼎立から統一新羅へ

高句麗、百済、新羅の三大勢力が鼎立していた時代は三国時代と呼ばれる。紀元前37年建国とされる高句麗は、徹底した中央集権体制と軍事力、儒教や仏教に基づいた人材養成によって、百済や新羅を圧倒する繁栄を築いた。なかでも391年に即位した広開土王とその息子の長寿王が在位した100年余に、高句麗は最盛期を迎えている。

一方、隣国の中国では五胡十六国、南北朝時代など複数の王朝が分裂する時代を経て、楊堅が建てた隋王朝による統一国家が成立。それを機に598年から4回に及ぶ高句麗出兵を行なったが、最終的に内乱により自滅した。唐の時代になると、今度は新羅と手を結び、水陸13万もの大軍を派遣し、百済を滅亡させた。しかし、百済復興のために動いていた倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間で戦乱が勃発。唐は白村江にて倭国の水軍を破り、668年、再び新羅とともに出兵し、かねてから攻撃を仕掛けていた高句麗をついに滅亡させ、三国分立は終焉を迎えた。

百済と高句麗を倒すために唐と連合軍を結成した新羅は、旧百済領の支配権をめぐり唐と激しく対立。670年に始まった羅唐戦争で唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせた朝鮮半島をほぼ掌中におさめることに成功。統一新羅時代を築いた。新羅は、以後の100年間、安定した政治体制と経済基盤を築き、専制王権を発揮した。

高麗王朝時代 918〜1392年

10〜14世紀にかけて朝鮮半島に存在した国で、高句麗の子孫、王建が建てた高麗は、仏教の最盛期を迎えたが、内乱や外部侵略などが絶えなかった。

 

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新羅の衰退と高麗王朝の建国

朝鮮統一を成し遂げた新羅王朝は、律令国家設立のため仏教を手厚く保護し、王宮のある慶州を中心に仏教文化を広めた。石造美術や金銅の仏像など高い技術が生まれたのもその頃だ。それらを支えたのは、骨品制という身分制度によって守られていた王室や貴族階級などだった。しかし、9世紀を前に矛盾した身分制度への不満が噴出し、新羅の王権はしだいに衰退の途をたどる。豪族や民衆が反乱を起こし、後百済、後高句麗などの地方政権が多く誕生した。

そのうちのひとり、王建は、漢江下流の水運業によって財力と軍事力を蓄え、権力を手にした人物だ。彼は、918年に高麗王朝を創設。滅亡した渤海からの移民も受け入れ優遇した高麗に対して新羅王朝(慶尚道)は帰順したが、後百済はのちのちまで高麗に敵対した。王建は勢力を拡大し、935年に新羅王朝を、翌年には、後百済に対して徹底的に武力で討ち、支配下に置き、後三家の再統一を果たした。後百済を滅ぼすことで朝鮮半島を統一し、文字どおり高麗王朝を成立させた。韓国をkorea(コリア)と呼ぶのは、高麗に由来するとの説もある。

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高麗時代には青磁の焼物が多く作られた。当時はこの美しい色つやを「翡色」と呼び、おもに貴族が用いた。写真は国宝の青磁象嵌宝相華唐草文碗(国立中央博物館蔵)

武臣政権の台頭と元王朝の襲来

高麗初期、地方の豪族は半独立的な勢力を築いていた。一刻も早く安定した中央集権を実現するため、第4代光宗が行政を司る官僚を選抜する、儒教的国家試験「科挙」を導入。高麗王朝は、科挙による文臣官僚と一部の門閥貴族が支配する社会となった。

文班(文臣)と武班(武臣)による両班官僚体制は、科挙が力を持つにつれ、文班の優位へとつながった。武班のための武学斎も文臣の猛反対により却下され、しだいに武班を軽んじ、文班を重んじる「尚文軽武」の風潮が高まっていく。

しだいに傲慢になっていく文班に対し、それまでの不満がたまりにたまった武班らは、1170年、武臣の乱を起こす。1196年、崔忠献が登場した頃から、これまでの文臣優位を覆し、武臣優位政権を築いた。1231年には元(モンゴル)の襲来を受け、40年にわたる戦争に耐えたが、崔氏政権が倒れたのを機にモンゴル帝国に降伏した。

李氏朝鮮王朝時代 1392〜1910年

高麗最後の王・恭譲王から王位を継承した李成桂が即位。両班の崇儒排仏、訓民正音など文化的に発展しつつも末期は諸外国との戦いが続いた。

 

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李成桂による李氏朝鮮の成立

14世紀、帝位の相続争いなどで統治に混乱が見え始めた元は、大規模な疫災にも見舞われる。不満を抱えた白蓮教徒による紅巾の乱が勃発したのを機に、1368年、中国では民乱軍の首領のひとり、朱元璋が南京で即位し、明を国号とした。即位後、真っ先に北伐に乗り出した朱元璋に脅威を抱いた元の順帝が、北方の上都にあっさり逃れたため、万里の長城以南の中国は、晴れて明の統治下に置かれることになった。

1370年から1389年までは、倭冦による朝鮮半島侵入が一気に増えた時代でもあった。倭冦は、高麗の南部沿岸を皮切りに沿岸部から穀倉地帯、内陸部までゲリラ的攻撃に及び、圧力をかけた。

その窮地を救ったのが、李成桂が率いる軍団である。1380年、鎮浦(郡山港)を襲った500隻の倭冦を高麗水軍が火砲で攻撃した。その後、李成桂軍は逃げた倭冦を追撃し、民衆の絶大な支持を集めたという。なお、倭冦討伐におけるおもな戦闘力は、女真人の騎馬軍団によるものと推測される。

明が元を追放したのち、高麗王朝では新しい明の側につく親明派と、以前からの元国に従う親元派が対立していたが、1388年、親元派は、渤海と黄海の間に突き出た元の旧領土、遼東半島を明から奪還するため、出兵した。そこで右軍都統使に任命されていた李成桂は、かねて親交のあった反対派の左軍都統使と共謀。進軍の途中、明へ出兵すると見せかけて鴨緑江の威化島で引き返し、高麗に反旗をひるがえすというクーデターを起こした。この経緯を「威化島回軍」という。高麗王都の開城(開京)を攻め込み、上官の将軍を討った李成桂は、事実上、高麗朝の実権を握ることになった。

それから32代を廃位し、34代恭譲王を即位させたが、やがて李成桂太祖自身が高麗の最後の王、恭譲王を廃して、みずから高麗王に即位。以後518年も続く朝鮮半島の最後の王朝、李氏朝鮮王朝を成立させた。

李成桂 イ ソンゲ 1335〜1408

元(モンゴル)の武官を経て高麗の武官となり、李氏朝鮮を創設。『李朝太祖実録』によれば、全州李氏の始祖、李翰の21代子孫。

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安定した発展を遂げた李朝中期

李氏王朝は、国号を朝鮮とし、漢陽(現ソウル)を都に制定した。官僚の採用に、儒学に基づく科挙を取り入れたことから、李朝は国家の学問として儒教を尊び、とくに朱子学を重んじた。やがて儒教を崇拝し、仏教を排斥する「崇儒排仏」思想が広まった。

王朝第4代・世宗大王の時代の王権は強固で、軍事面と政治面のバランスがとれ、王の権威も安定していた。世宗は、一極集中型から官僚主導へと体制を変え、明との建設的な関係を築く政策にも力を入れた。なかでも、韓族の言語である朝鮮語に則した現在のハングルのもととなる文字表記を編み出し『訓民正音』を編纂したことは、韓国文化における大きな功績といえる。

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ハングル表記の原型となった『訓民正音』

世宗大王 セジョンデワン 1397〜1450

李朝第4代国王。儒教に基づいた国政、訓民正音の制定、貨幣経済や印刷術の確立など李朝歴代君主のなかで優れた手腕を発揮した人物。

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豊臣秀吉の出兵、文禄・慶長の役

李氏朝鮮時代中期、朝鮮半島の泰平を揺るがした出来事が、豊臣秀吉による2回の出兵、1592年の文禄の役と1597年の慶長の役である。戦闘態勢の整っていない李氏朝鮮に対し、歴戦の日本軍が優勢かと思われたが、明からの救援軍や李舜臣率いる水軍の活躍により形成は逆転、豊臣軍勢は撤退した。

丁卯胡乱と丙子胡乱

仁祖が擁立され、朝鮮が親明的な態度をとるようになると、明と対立関係にあった後金は1627年、およそ3万の軍勢を率いて朝鮮半島に侵攻した(丁卯胡乱)。明が衰退し、後金が国号を清と改めると、仁祖は改めて臣従を拒絶。これに怒った清は、1637年再び朝鮮を侵攻した(丙子胡乱)。降服した朝鮮は、清と冊封関係を結び、その関係は日清戦争で清が敗れるまで続いた。

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国内のいたるところに李舜臣の銅像が立っている

権力闘争が絶えない李朝末期

1864年、12歳で即位した国王高宗に代わり、政治の実権を握った高宗の父、興宣大院君は儒教思想を軸とした攘夷政策をとり、鎖国を固守し、欧米諸国の度重なる朝鮮開国の要求も受け入れなかった。興宣大院君は攘夷政策を進めるなかで、両班の特権制度の見直しを図ったため、両班層からの反発を強め失脚。実権は高宗の王妃である閔妃の一族に移る。

1875年、朝鮮 の首府漢城の北西岸、江華島付近で、朝鮮西岸海域を測量中の日本軍艦に向け発砲するという江華島事件をきっかけに、日朝修好条規を締結。朝鮮の鎖国を解いた。 1894年になると、閔氏政権の重税政策、官僚たちの不正などから体制に反発を強めた農民により、甲午農民戦争という一揆が起こった。この内乱をめぐって日清両国は朝鮮に派兵。日本と清国の対立が深まり、やがて日清戦争へと発展する。

高宗の妃、閔妃は、大院君と権力闘争を繰り広げた。やがて政局が混乱し閔妃が暗殺されると、高宗は一時的にロシア公使館に身を寄せるが、翌年には王宮に戻り、国号を大韓帝国と改めた。しかし、ロシアの影響力が強大になるにつれ、対立が起こり、1904年に日露戦争が勃発する。日露戦争に勝利した日本は、ロシアと講和条約を結び、韓国に統監府を設置した。

初代統監伊藤博文がハルビンで暗殺されると、1910年には日韓併合条約が結ばれ、韓国は日本に併合されることとなる。

興宣大院君 フンソンデウォングン 1820〜98

次男の高宗が幼くして跡継ぎの国王として即位したため、成人までの10年間、大院君の称号を与えられ、代わりに政務を取り仕切った。

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日本統治時代〜大韓民国へ 1910年〜現在

日本の弾圧的統治から独立後、アメリカとソ連に南北が分割占領されたことを受け、朝鮮戦争が勃発。その後、大韓民国はめざましい発展を遂げる。

 

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日本統治時代

1910年に韓国併合の条約が調印されると、李氏王朝は終わりを告げた。漢城は京城と改名され、日本統治による朝鮮総督府が設置される。総督には軍人が任命され、多岐にわたる権限を持ち、内閣から独立した機関として政治を行なった。その後、憲兵警察による取り締まりや、土地や行政制度に関する政策を強権的に推し進め、結果として独立運動の気運を高めることとなった。

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朝鮮総督府には総督官房と、総務、内務、度支、農商工、司法の6部門に加え、朝鮮の統治機構全体を置いた

三・一運動

1919年、33人の宗教指導者らが、朝鮮中心部のパゴダ公園(現・タプゴル公園)に集まり、独立宣言を読み上げる計画が進行していた。それが三・一運動である。これを契機に、独立運動は各地に広がり、やがて半島全体に及ぶ大きな運動へと発展した。運動を受けた日本側は事態の収束を図り、憲兵警察を廃止するなどの緩和をし、文化統治を行なった。

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仁寺洞近くのタプゴル公園にある、三・一独立運動を題材にしたレリーフ。朝鮮半島各地で起こった運動の様子が、10枚にわたって描かれている

大韓民国の成立と南北分割

1945年8月、日本敗戦とともに35年に及んだ朝鮮統治は終止符を打つ。しかしその直後から、民衆の意に反してアメリカとソ連による分割占領が始まった。アメリカは南部、ソ連は北部に進駐し、国土は北緯38度線で二分割され、異なる政治体制のもと軍政が行なわれた。

第二次世界大戦後の1948年、朝鮮半島の抗日運動家だった金日成は、半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を建国。一方の大韓民国は、朝鮮の独立運動家の李承晩が初代大統領に就任、南北それぞれで単独選挙が行なわれた。

朝鮮戦争(1950〜53) 

1950年6月25日。成立したての大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権をめぐる朝鮮戦争が勃発した。そもそも北朝鮮が国境を越えて侵攻したことによって起きたのだが、朝鮮全土が戦場となり、多くの人命が失われ、国土は疲弊していった。

当初、韓国側の劣勢が顕著であったが、イギリス・アメリカ・韓国の国連軍による反撃により、韓国側は1951年にソウルを奪還。その後は膠着状態に陥り、1953年に暫定的に休戦協定が結ばれた。戦闘が終結したのは、開戦からじつに3年後のことだった。そのとき定められた休戦ラインは、現在に至るまで変わっていない。

1960年には、韓国初代大統領の李承晩の欺瞞にまみれた長期政権に不満を募らせた市民や学生から批判が上がり、李承晩はハワイへ亡命する。

近代化に突き進む韓国の現代

李承晩に代わり、政権を握ったのは1961年5月16日に軍事クーデターを成功させた朴正煕であった。市民は再び軍事政権に屈さねばならなかったが、経済開発計画を推進した朴大統領は、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を生み出した。

1979年、朴大統領は腹心によって暗殺される。徐々に盛り上がる民主化運動により1987年には「民主化宣言」が行なわれ、大統領の直接選挙が実現。当選した慮泰愚大統領は、ソウルオリンピックを成功させた。

依然として対立している北朝鮮との関係のなか、金大中大統領は、対北朝鮮政策として太陽政策を掲げ、のちに就任した慮武鉉大統領がその政策を引き継ぎつつ、これまでの軍事政権における人権抑圧問題にメスを入れた。南北問題に光が差すかに見えたが、北朝鮮の核開発に対して国際的な批判が出されたのを受け、2008年に就任した李明博大統領は朝鮮半島の非核化と国際社会との協調を掲げたが、北朝鮮の態度は再び硬化している。南北の融和を図りつつ、近代化への歩みは今後も続く。

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今や、世界でもトップレベルの技術大国ともなった

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ ソウル 釜山」です。掲載している情報は、2014年3〜11月までの取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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