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【バリ島】楽園のルーツを知る!

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mapple

更新日:2018年3月25日

長い年月をかけて、バリ島固有の文化に、ヒンドゥ教やヨーロッパなど外来の文化が融合し、バリ島独自のバリ・ヒンドゥ文化が華やかに開花した。

自然に恵まれた熱帯の島

インドネシアは東西約5100kmの範囲に、1万7000以上もの島々が広がる、世界最長かつ最大の群島国家だ。この地理上の広がりは「赤道に掛けられたエメラルドの首飾り」とも表現される。
バリ島は面積5532km2(東京都の約2.5倍)ほどで、ほかの島々と比べてもけっして大きいわけではないが、最も魅力に富んでいる、豊かな島といえる。
バリ島の中央よりやや北側には、アグン山(標高3142m)、バトゥール山(標高1717m)などの山々が東西に連なる。いずれも活火山で、最近では、前者は1964年に、後者は1917年と1926年に大噴火をしている。こうした火山灰と熱帯モンスーン特有の激しいスコールが肥沃な土壌を生み出し、ライステラスに代表される、バリ島独特の風光明媚な景観をつくり出しているといえる。
これらの山々より南側は、豊かな穀倉地帯で人口密度も高いが、北側は平地が少ない。かつて交易の中心地として栄えた北岸の街、シンガラジャが発展できなかったのは、この地理的な制約のためともいわれている。

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雲に隠れたアグン山と裾野に広がる水田

金属文化と稲作技術の到来

約50万年前の第四氷河期の頃には、インドネシア群島は、スンダ大陸、サフル大陸という2つの大陸の一部をなしていたと考えられている。アジア最古の人類の化石が発見されたジャワ島とバリ島は、海峡を挟み3㎞しか離れておらず、海面の低かった氷河時代には歩いて渡ることもできたという。
現在のバリ人は、マレー諸島の先住民族であるオーストロネシア語族に起源を持つが、彼らは、紀元前2000年頃に中国南西部から渡ってきたといわれている。東南アジア各地では、紀元前4世紀から紀元後1世紀頃にかけて、ベトナムのドンソンを中心に青銅器・鉄器文化が栄え、インドネシア群島もその恩恵に浴した。バリ舞踊のガムラン演奏に用いられる打楽器やプナタラン・サシ寺院のペジェンの月と呼ばれる銅鼓などは、まさにその影響の証しだろう。
また、同時期に稲作技術もバリ島にもたらされたが、いつ頃始まったのかは定かではない。ただ、かなり早い段階から白米や赤米が作られていたと推測されている。

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プナタラン・サシ寺院にある銅鼓、ペジェンの月。巨大な銅鼓の表面には、人面や幾何学の模様が見られる

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ヒンドゥ文化の隆盛

バリ島に初めての王朝、ワルマデワ朝が誕生したのは10世紀のこと。ウブド周辺に点在しているグヌン・カウィやゴア・ガジャ、ティルタ・エンプルといった遺跡や寺院は、この王朝と関係の深いものだ。当時のバリ島はジャワ島と強い絆で結ばれており、島内ではジャワ・ヒンドゥ文化の浸透が進んだ。

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1954年に発見された沐浴の遺跡(ゴア・ガジャ)

その一方で、長らくバリ島は、ジャワ島に次々と興った強大な王朝に干渉され続け、13世紀末に東ジャワのシンガサリ王朝、14世紀前半には、新たに勃興したマジャパヒト王朝の支配下に置かれた。16世紀になると、ジャワ島でイスラムが台頭し、マジャパヒト王朝が滅亡。バリ島東部のスマラプラ近くを都として、新たにゲルゲル王朝が誕生した。この時期、バリ島ではワヤン・クリッ(影絵芝居)やトペン(仮面劇)、彫刻や音楽などのジャワ・ヒンドゥ文化が盛んになった。さらにジャワ島からバリ島に逃れた知識階級の影響を受け、16世紀半ばには、バリ島は絢爛豪華な王朝文化の黄金期を迎えた。

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スマラプラは王朝時代の面影が残る(スマラプラ王宮跡)

18世紀に入ってゲルゲル王朝はクルンクン王朝にとって代わられたが、この王朝にはかつてのような権勢はなく、やがて、バリ島には8つの小王国が成立した。この王国の領土分割が、現在のバリ島の行政区分(バリ州内8県)のもととなっている。

オランダによる植民地支配

17世紀に入ると、ヨーロッパ列強が次々とインドネシア海域に進出してきたが、彼らの興味を引くような特産品がないバリ島ではバリ人による自治が続いていた。
オランダが本格的にバリ島に干渉し始めたのは19世紀に入ってからのことだ。1846年にオランダ軍がバリ島北部のブレレンに攻め入ると、以後、バリの王族や民衆との間で半世紀にわたる戦いが繰り広げられ、1906年にはバドゥン王国の都デンパサールで悲惨なププタン(玉砕)が決行された。それは、王の名誉と死の尊厳を守るための儀式であり、オランダ軍兵士が呆然と見守るなか、正装して美しく着飾ったバリ人の老若男女の集団が、一斉に剣を胸に突き刺した。
こうしてバリ島は1908年にオランダの支配下に入り、8王朝時代は終焉を迎えるが、オランダはかつての王族たちに統治権を与え、政治的混乱を防ごうとした。同時に国際社会からの非難を回避するために、バリ島の伝統文化の保護に努めた。これがきっかけとなってのちにバリ芸術の「ルネサンス」ともいわれる文化復興の時代が到来、バリ島は世界中にその名が知られることとなる。これらのオランダ支配は、日本軍がバリを陥落させた1942年まで続いた。

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現在は市民の憩いの場所であるププタン広場

バリ文化の創出と復興

オランダによる間接的な植民地統治が進むなか、1930年代に入ると、「楽園の島」バリの魅力は世界に伝えられ、欧米からの多くの観光客であふれ返った。1932年には喜劇王チャップリンもこの地を訪れている。
バリ芸能を語るうえで、ドイツ人画家ヴァルター・シュピースやオランダ人画家ルドルフ・ボネらの存在は重要だ。が、彼らを支援したウブド王族の末裔であるチョコルダ・グデ・アグン・スカワティという人物を忘れてはならない。ウブド村の村長でもあった彼は、シュピースやボネに働きかけて1936年にピタ・マハ財団を設立し、現地アーティストの技量の向上を図った。
シュピースのもとには、ボネ以外にも、メキシコ人画家のコバルビアスやアメリカの音楽研究者コリン・マックフィー、人類学者のマーガレット・ミードやジェーン・ベロといった、さまざまな国籍の芸術家や学者たちが集まり、バリ島を多様な角度から調査した。こういった人々が欧米に向けて新たなバリを発信し、「楽園の島」を演出したのだ。
シュピースは、舞踊の分野でも才能を発揮し、ケチャッとバロンダンスを創作している。これは、もともとあった儀礼舞踊劇をベースにして、シュピースが地元の舞踊家らにアドバイスをして作ったものだ。この例からもわかるように、バリ島の伝統芸能の多くは植民地時代以降に生み出されたものであり、それは、バリ人みずからが欧米人が望むバリを欧米人との交流のなかから見つけ出し、作り上げてきた産物ともいえるだろう。

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地響きとともに男性のかけ声が響き渡る(ケチャッ)

筆者:mapple

奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ バリ島」です。掲載している情報は、2017年11〜2018年1月にかけての取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。