トップ > 関西 > 京都 > 亀岡・美山 > 亀岡・湯の花温泉 > 

【本能寺の変 ルート】本能寺の変 明智光秀行軍ルート(老ノ坂越え)実踏レポ 日本史最大の事件にチャレンジ!!

この記事をシェアしよう!

【本能寺の変 ルート】本能寺の変 明智光秀行軍ルート(老ノ坂越え)実踏レポ 日本史最大の事件にチャレンジ!!

天正10(1582)年6月1日深夜、丹波亀山城を出陣した明智光秀率いる約1万3000の軍勢は、突如反旗を翻し、天下目前の主君・織田信長を討つべく京都の本能寺を急襲した。日本史最大の事件としてあまりにも有名な「本能寺の変」である。

果たして光秀は何を思い、夜道を進軍したのか。今なお多くの謎に包まれたミステリーに迫るべく、編集部員2人はJR亀岡駅に降り立った。同日同時刻、約25㎞にわたって山陰古道を歩き、真夜中の峠越えチャレンジを決行。果たして史実通り、無事に、本能寺へたどり着けるのか!?
これはその実録レポートである。




【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その①】丹波亀山城跡~篠村八幡宮

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その①】丹波亀山城跡~篠村八幡宮
明智光秀公像

はじめに
大河ドラマ『麒麟がくる』で再び脚光を浴びた明智光秀。これまでの大謀反者・裏切者というネガティブなイメージだけではない、新たな側面を知って、より光秀に興味がわいた人も多いのではないでしょうか。

今回のテーマはずばり本能寺の変です。光秀が何を思い謀反に至ったのか、その要因はいくつもの説が挙げられ、日本史最大のミステリーとして今もなお謎のままですが、光秀が起こした変によって歴史が大きく動いたという事実は間違いありません。

今回は、光秀が本能寺で織田信長を討つまでの道のりを、同日同時刻(※旧暦の6月1日は現在の6月21日にあたる)に実際に歩き、光秀の心境に思いを馳せてみよう!ということで、編集部きっての歴史通と足に自信のある2人が今回チャレンジ!丹波亀山城から本能寺まで約25㎞の道のり、夜通しの歩き、漆黒の峠越えと、ハードな試練に打ち勝って、果たして史実通り本能寺にたどり着けるでしょうか。

老ノ坂越えルートにチャレンジ
光秀が丹波亀山城を出陣し、本能寺へ向かったとされるルートにはいくつかの説があり、また軍をいくつかに分けて進軍したという言い伝えもあります。そのルートというのが「老ノ坂越え」「からと越え」「明智越え」の3つです。今回はその中で最も有力とされている「老ノ坂越え」ルートに挑みます。また残りの2ルート「からと越え」「明智越え」についてものちほど解説します。

※諸説あるものや伝承・言い伝えの類もあり、以下の内容には必ずしも史実とは限らないもの、正確でないものも含まれます。また実際に歩いて感じた個人的な感想・見解も含みます。より厳密な情報を知りたい方は、専門的な歴史書等の文献をお当たりください。

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その①】丹波亀山城跡~篠村八幡宮

本能寺に至る3ルート。今回は老ノ坂峠を超えるルートを実踏チャレンジ!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】明智光秀公像前から出陣!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】明智光秀公像前から出陣!!
明智光秀公像前からスタート!!

6月1日。天候は晴れ。
昼間は30度を超える暑さだったが、日が暮れるとひんやりとした空気に。
空を見上げれば、もうじき下弦の月となる月が煌々と光り、ナイトウォークにはうってつけの夜だ。

21時30分、編集部員HとTはJR亀岡駅に降り立った。
まずは駅前のコンビニで、水分や補給品を買い込み、徹夜歩きに備える。
駅からまっすぐに伸びる短いメイン通りを進んで、スタート地点に定めた南郷公園の明智光秀公の像の前に移動する。令和元年に建立されたばかりの像で、丹波亀山城跡を背に、亀岡の玄関口であるJR亀岡駅をまっすぐに見据えた、亀岡市の新たなシンボルである。今宵、煌々とライトアップされた光秀像は、我々を見守るように静かに佇んでいる。

まずはスタート前に事前に下調べしておいたルートマップを確認したり、準備体操などを行う。そして、少しでも当時の状況を再現できたらと、こしらえた手製の武具を装着。武将様はおこがましいので、足軽スタイル。まあ、簡単に言ってしまえばチープなコスプレだが、格好から入ってテンションを上げていくのだ。なにしろ、徹夜で25kmもの道のりである。

準備が整い、22時少し前に、光秀の家紋である青い桔梗紋の旗を掲げ、鬨の声を上げて、老ノ坂越えをスタートする。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】丹波亀山城址(大手門跡/古世門跡)

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】丹波亀山城址(大手門跡/古世門跡)
大手門跡のある形原神社を出立!!

明智光秀公像に見送られ、まずは目の前の馬場通を西へ。堀を回り込むようにして亀山城址の西側へ進む。にわかに坂を上り、信号右折、県道402号へ入る。車通りも人通りもそれほど多くはないが、時々すれ違う人は、この足軽スタイルにぎょっとしている様子。

ほどなくして、形原神社に到着する。ここは丹波亀山藩の初代藩主・松平信岑を主祭神として創建された神社で、ここにはかつて丹波亀山城の大手門があった場所。

亀山城下の内外は、内堀・外堀・惣堀の御堀と御土居で仕切られ、城内から各方面に5つの城門が配置されていたという。大手門は南方面で正面大手に向かって開かれた門。光秀にとっては、一世一代の大勝負に向かうのだから、きっと城の正面である大手門から堂々たる面持ちで出立したに違いない。ここで今一度、鬨の声を上げる。

亀岡の市街地は歴史にまつわる案内板が充実しており、それらを目印に旧・山陰道をトレースして歩く。旅籠町通りを東へ進むと、南東の出入り口であった古世門跡がある。その角を右折し、京町通へ入る。城下で細かく折れ曲がった旧・山陰道(現・県道402号線)は、ようやくまっすぐ東へ進んでいく。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】丹波亀山城址(大手門跡/古世門跡)

丹波亀山城大手門跡

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】丹波亀山城址(大手門跡/古世門跡)

丹波亀山城古世門跡

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく
旧・山陰道を進む

京都と丹後地方を結ぶ旧山陰街道は律令時代からの主要な街道で、今もなお古い町家が軒を連ねる。亀岡の代表的な地酒である丹山酒蔵や、東洋文化研究家で作家のアレックス・カー氏が手掛ける古民家宿「離れ にのうみ」など、昔ながらの亀岡の町家風景が今も残る。また、京都祇園の八坂神社から分霊された祇園社もあり、毎年10月には亀岡祭山鉾が行われ、11基の山鉾が練り歩く。

そんな風情ある町並みを東へと進んでいくと、年谷川にぶつかる。この川は丹波亀山城の南東にある自然の要害で、かつては千本松と呼ばれるほどの松並木があったのだとか。一説にはそれも光秀が整備したという。この年谷川を渡ればいよいよ城外である。

引き続きまっすぐな街道を進み、もう一つ小さな川を渡れば、JR馬堀駅前。
ここで道は東から南へと折れ、にわかに上り基調となる。道は旧道らしくほどよいカーブが連なるワインディングロードなる。昼間は国道9号線の抜け道として比較的交通量が多いが、さすがにこの時間はほとんど車通りはない。城下を出たとはいえ、さすがに古くからの街道、この一帯にも立派なお屋敷や町家などが軒を連ねている。右手に国道9号線と並行する形で旧山陰道は進んでいく。

そうして、明智光秀公像を出発して、ちょうど1時間で、チェックポイントである篠村八幡宮に到着した。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく

亀岡の酒蔵・丹山酒蔵

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく

八坂神社の御分霊、祇園社

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく

亀山城下町の南東を流れる年谷川は天然の防衛線だった。いよいよ城下町の外へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】山陰道をゆく

旧街道らしいワインディングロード

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立
集結した明智軍が軍議を開いたとされる篠村八幡宮

丹波亀山城址より東へ約4㎞ほど、山陰道を歩きたどり着いたのが篠村八幡宮(篠八幡宮の表記もあり)である。休憩も含めて立ち寄る。鳥居をくぐり奥の社殿へ。

この篠村八幡宮で、光秀は軍議を開き、ここで初めて家臣に本能寺討ち入りを打ち明けたとされる。本来、光秀は信長の命により、中国で毛利と対峙する秀吉に加勢するため、西国方面へ向かうはずであった。通常、丹波国から西国へ向かう場合、亀岡から南西にある三草山(大阪府能勢町と兵庫県猪名川町の府県境)を越えてゆくのが通常で、東へ向かって進軍することが不自然であったためである。これまでは光秀の頭の中だけにあった秘めたる思惑が、ついに口外され、重臣たちに情報共有され、具体的な作戦へと発展した場所なのである。

またこの篠村八幡宮は、かの足利尊氏(当時は高氏)が、旗揚げ(神仏に誓って自分の立場を明らかにし、ご加護を願う行為)した場所でもある。鎌倉幕府の討幕を画策した後醍醐天皇が、元弘の乱の失敗で、隠岐島へ配流となっていたが、のちに脱出・伯耆国にて籠城。これを受け、鎌倉幕府の命により、後醍醐天皇討伐に出兵した高氏であったが、この篠村八幡宮にて宿営を張り、そこで心変わりをして、後醍醐天皇に与して鎌倉幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻め滅ぼしたのだった。またそののち、尊氏と後醍醐天皇との関係が悪化し、一時京から撤退を余儀なくされた際にも、ここで再起祈願を行っている。

戦前まで”明智の社”と呼ばれていた境内社叢林を抜けると、そこに亀岡市史蹟に指定されている「旗立楊(はたたてやなぎ)」と呼ばれる一本の木がある。これは足利尊氏が加勢するように呼び掛けた諸将たちに向けて、集合場所目印として楊の木に足利の家紋(二つ引両)と源氏の「白旗」を掲げたといわれる。

つまりこの地は、鎌倉幕府討幕と本能寺の変という2度の歴史の大転換、その出発の地なのである。光秀はきっと、ここで反旗を翻し、のちに室町幕府を確立した尊氏の威光にあやかって、この場所で信長討伐の意を宣言したのではなかろうか。

編集部一行はいったんここで小休止。いよいよここから今回のハイライトである峠越えへと挑んでいくことになる。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立

本殿

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立

かの足利尊氏(当時の名は高氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵した地としても知られる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立

旗立楊にて成功を祈願して旗立

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】篠村八幡宮で旗立

老ノ坂越え(丹波亀山城跡~篠村八幡宮)ルートMAP

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その②】篠村八幡宮~老ノ坂峠~沓掛

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その②】篠村八幡宮~老ノ坂峠~沓掛
深夜の峠越えに突入!!

JR亀岡駅前の明智光秀公像を出発し、丹波亀山城址・城下町を抜け、旧山陰道を一路東へと進み、ちょうど1時間で約4kmの道のりをこなして、明智軍の軍議が開かれたといわれる篠村八幡宮に到達した。ここで今一度、本能寺へ向けての鬨の声をあげ、いよいよ本格的な峠越え区間へと突入してゆく。

裏手にある旗立楊を発ち、境内を抜けて再び山陰道へ。ここまでは、旧街道らしい町家や屋敷が連なっていたが、そろそろ建物が減り、外灯も減り、夜の闇がますます幅を利かせてくる。周辺の田畑からはウシガエルが野太い声を上げている。この一帯は京を発ち、峠を越えたところにある、一番最初の宿駅(大枝駅)が設けられた場所でもある。前方の闇に、うっすらと山並みのシルエットが浮かび上がっている。あの山と山とが一番低くなっているあたりが老ノ坂峠だ。

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その②】篠村八幡宮~老ノ坂峠~沓掛

徐々に民家も少なくなり、前方の暗闇に山並みが浮き上がって見えてくる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】王子神社

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】王子神社
王子神社

ほどなくして王子神社に到達する。熊野信仰に基づく、熊野若一皇子を祭神に勧請したこの王子神社は、街道を行き交う人々を見守る峠神として親しまれ、また鳥居の下から湧き出る清水は枯れることなく、旅人の喉を潤したという。

さて、この王子神社のところで、山陰道は車道を離れて、左手の人気の全くない古道へと続いていく。ここまでは外灯の明かりなどを頼りに歩いてきたが、ここからはいよいよヘッドランプが必要不可欠となる。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】王子神社

老ノ坂についての案内板を確認する

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】王子神社

王子神社から車道を離れ山陰古道へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道
サバイバルの様相を呈してくる

車道を降りて、左手の真っ暗な道へと分け入っていく。あっという間に世界から光が失われ、暗闇に吸い込まれてゆく。ヘッドライトを最大にして辺りを照らしてみるが、ざわざわと生い茂る緑がうごめくだけで、遠くまで見通すことができない。慎重に田んぼのあぜ道のような道をなぞっていく。

律令時代以降、山陰道は都が所在する畿内と山陰道諸国の国府を結ぶ五畿七道(官道)で、それぞれの時代において主要ルートとして都度整備されてきましたが、この辺りの山陰道を「山陰古道」と呼び、最も古い時代の街道の状態が今なお残る数少ない区間。道幅1~2mほどの道を、光秀一行も同じように進軍したのだろうか。

しばらく進むと鵜の川という小さな川にぶつかる。川そばには船着場の案内板。これほど小さく浅い川では船の運航は不可能のように思われるが、この川は北を流れる桂川につながっており、昔は水路を使って物資や人を運んでいたのかもしれない。

さらに進むと、もう一つ小さな川を渡る。こんどは三軒屋という場所に出る。ここは街道町のはずれで、読んで字のごとく三軒の民家がかつてここにあったそうだ。

三軒屋を過ぎると、うっそうとした雑木林の中へと道は進んでいく。深い緑に月明かりも遮られ、闇はますます深くなっていく。道は舗装されているのだが、枯葉や枝が散乱し、山道のようになってくる。少し登り基調となる坂の手前に、「占い石」なるポイントがある。ここは、かつてこの石に座る辻占い師が山陰街道を行き交う旅人の命運を占ったのだとか。

しばらく暗闇と格闘して、ようやく林を抜けると、道が分岐している辻に出る。左手は、本能寺へのもう一つのルート「からと越え」へと続く中の谷林道。我々は直進して山陰古道をトレースしていく。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道

船着場と三軒屋

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道

漆黒の雑木林へ突入!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道

占い石

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】漆黒の山陰古道

もうひとつのルートである「からと越え」に向かう中の谷林道との分岐。雑木林の暗闇を抜けて思わず安堵

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え
深夜の山歩き

中の谷林道との分岐を直進し、山陰古道を進んでいく。ゆっくりと弧を描くようにして棚田を進んでいくと、棚田の向こう側の眼下に亀岡市街の明かりが点々と見える。ここまで、わずかながらではあるが登り基調で進んできて、それなりに高度を稼いできていたようだ。

さらに進んでいくと、何やら前方が騒がしい。現在の山陰道である国道9号線である。こんな時間帯でも、幹線道路の往来は激しく、自家用車だけでなく、タンカーやトラックなどの大型車が頻繁に通過していく。まさかドライバーの方も、こんな時間に峠に差し掛かるような場所を歩く人がいるとも思っていないし、特に京都側から下ってくる方面は下りの勢いもあってかなりのスピードが出ている。ある意味今回最も危険な個所を、500m~600mほど路肩を歩いて通過しなくてはならない。ライトで前後方を照らして注意喚起するなど、細心の注意をもって歩く必要がある。

連続ヘアピンのピーク地点から国道9号線へ入り、峠方面へ。直線となって足早に進んでいく。次のカーブ、老ノ坂トンネルに差し掛かる手前の地点で、車の往来を見計らって道を横断する。そうしてガードレールの切れ目から、京都縦貫自動車道の側道へと滑り込む。

両脇を高速の高架に挟まれ、オレンジ色の蛍光灯に照らされた側道に入って、小休止を入れる。わずかではあるが高度が上がり、また本格的な山中に入ったことで、周辺の空気の温度がぐっと下がったため、冷えないようにウェアリングを調える。

再出発して、まっすぐに伸びる側道を進んでいく。高速の新老ノ坂トンネルの手前で道は直角に折れ、突如として漆黒の急坂が目の前に立ちふさがる。雑木林の間を縫って、急坂にとりつく。外灯はなく、ヘッドライトのわずかな明かりだけを頼りに坂を上っていくと、ようやく向こう側にうっすらと坂のてっぺんが見えてきた。ちょうど日付が変わるタイミングで、老ノ坂峠に到達した。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

深夜でも交通量の多い国道9号線の路肩を慎重に進む

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

旧道へ向かうため手早く国道を渡る

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

京都縦貫自動車道の側道を進む

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

高速の新老ノ坂トンネルの入り口の脇を登っていく

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

小休止

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

外灯もなく真っ暗闇の急坂を上る

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】いよいよ峠越え

ようやく峠が見えた!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】老ノ坂峠

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】老ノ坂峠
老ノ坂峠

坂のピークを向こう側へ少し過ぎたあたりに、老ノ坂峠の道標がある。標高480mの大枝山/大江山(おおえやま)の中腹、標高230mにある峠で、昔は大江坂(おおえのさか)と呼ばれたものが変化して、老ノ坂となったといわれている。今は直線的に道がついているが、昔は山道が曲がりくねって峠を通過している。

この老ノ坂峠は山城国と丹波国の国境にあたり、交通・軍事の要所として関が設けられていた場所でもある。また、街道を往く者が京と別れを告げる場所として、古くから歌枕の地として知られ、百人一首に収録された「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天橋立」という小式部内侍の歌が有名。さらに、都の内外で生じた穢れや邪悪から平安京を防衛する最前線として四堺の1つ(北西の隅)として規定された場所でもある。主要街道の要所であったことから、昔は相当に活気のあった道で、この一帯には旅籠や万屋、食事処などが軒を連ねており、またこの辺りからは淀屋や伏見までが一望できたといわれている。

ちなみに現在の山陰道である国道9号線の老ノ坂トンネルは明治期に峠の真下に掘られた松風洞というトンネルを拡幅したもので、その横にある歩行者・自転車専用トンネルは昭和初期に掘られた和風洞である。

ここからいよいよ丹波の領地を出て、はるか向こう側に見える京の都の明かりを目撃した光秀の胸中はいかばかりであったか。信長討伐の意思はおそらく揺るぎないものではあったろうが、ともに天下を目指した主君を裏切ることへの呵責、決して失敗することができない重圧、複雑な感情がかけめぐっていたのではないだろうか。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】老ノ坂峠

いざ丹波国から山城国へ!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】背筋も凍る首塚大明神

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】背筋も凍る首塚大明神
首塚大明神

老ノ坂峠を少し進むと、もう一つ東側のピークがあり、そのたもとには首塚大明神というなんとも恐ろしい名前の社が、森の中に現れる。

先述の通り、この一帯は平安京からあらゆる穢れや邪気から守るための四堺のひとつであり、この首塚大明神にはかの酒呑童子のものと伝えられる首塚が置かれている。酒呑童子は鬼の頭領として様々な伝説や物語に登場するが、おそらく実際にはこの界隈を縄張りとした盗賊・山賊の頭目で、源頼光によって討伐される。戦勝品として打ち取った首を持ち帰ったが、老ノ坂の道端にある地蔵尊に、不浄なものを都へ持ち込んではならぬと忠告されると同時に、その首がその場からピタリと動かなくなったという。困り果てた頼光一行はその首をこの地に埋葬した。悔い改めた酒呑童子は、現在では首から上の病気を持つ人々を助ける大明神として祀られている。

このような鬼退治伝説は全国各地に存在するが、京都府北部の福知山・宮津・与謝野にまたがる大江山にも同様の酒呑童子伝説が残されている。

どうあれ、この真夜中の山林で、これほど恐ろしいネーミングといわれのあるスポットはあるまい。風の音すらしない静寂のなか、早まる鼓動を押さえつけ、背中に嫌な汗をかきつつ、足早に退散する。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ
首塚大明神の脇の車止めの先からは未舗装の山道

首塚大明神の手前が府県境となっており、いよいよ京都市西京区へと突入する。お社の脇にあるの車止めを越えていくと、ここからは舗装されていない完全な山道となる。いよいよ老ノ坂越えのハイライトだ。小さな沢のようなトレースを慎重に上っていく。すると、前方上部にガードレールのある舗装道が見えるが、あちらへ進むのではなく、なんとその下をくぐっていく。くぐった先からは道は下り基調に転じる。当然道は舗装されていない。

この辺りはとりわけ森が深く、月明かりも届かないので、ヘッドライトを最大にして、とにかく滑落や転倒に細心の注意を払いながら、ゆっくりと前進する。音もなく明かりもなく、ただ自分の鼓動と、枯葉や枝を踏みしめる足音だけが響く世界では、時間の感覚も距離の感覚も失われてしまい、果たしてどのくらい歩いているのかわからなくなってくる。そして、幻覚とまではいかないが、何か背後から得体の知れないもの気配や、周囲の闇からのまなざしを感じ、身の毛がよだつとはまさにこのことである。

ようやく山道を下りきり、舗装された道に出た時には、2人ともほっと安堵の息を吐いた。後になってみれば、ものの15分程度の山道であったが、まるで1時間にも2時間にも感じられるような緊迫した山歩きであった。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

音も光も届かない静寂の闇

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

舗装道の下をくぐる。もはや山道というよりも溝

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

転倒しないように慎重な歩きが続く

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

後ろは決して振り向けない…

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】サバイバルな未舗装区間へ

ようやく明かりのある舗装道に出て胸をなでおろす

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り
京都霊園

未舗装の山道を抜けた先は、京都縦貫道の新老ノ坂トンネルの反対側の出口の辺りで、右側には京都霊園の広大な敷地が広がる。まだまだ予断を許さないとはいえ、人工の明かりがわずかにあるだけでこれほど心強いものか。

高速道路と並走するように急な下り坂を下っていく。時折、霊園の方から甲高い音が響いてドキッとさせられる。あれはきっと野生のシカであろう。ほどなくして、霊園の管理事務所棟の辺りに躍り出る。そのすぐ先で高速道路をくぐる。ついさきほどまで同じ高さにあったはずだが、随分と下ってきたのだ。さらにもう少し下っていくと、現在の国道9号線につながった。信号で道の反対側にある歩道へ渡る。

少し進んでラブホテルのあるY字路を左へ舵を切ると旧山陰道だ。突如、ホテルの従業員ドアが開いて2人の女性が飛び出てきたので、びっくりして思わず声を上げそうになったのだが、逆にあちら側が落武者のような恰好をしているこちら側を見て悲鳴を上げた。この格好のまま歩き通していたので自分の出で立ちをすっかり忘れていた。

旧道を進んでしばらく行くと、山陰道沓掛に到達した。この沓掛は、夜半に峠を越えてきた光秀が軍勢に休息を許し、兵糧を使い、馬を休ませた場所とされている。我々も老ノ坂峠から1時間ほど緊張を強いられた歩きをこなしたので、休息を入れる。すると、こんな夜更けにもかかわらず犬の散歩に出てきた女性が向かってきて声をかけてきた。最初は、兵士の格好にびっくりしていたが、事情を話すと頑張ってねとエールを送ってくれ、大いに元気をいただいた。

さて、ここまで距離にして約12kmほど。もうじき全行程の半分ほどの道のりを歩いてきたことになる。峠越えや未舗装の山道といったハイライトは無事に通過したという安心感はあるものの、ここからの後半戦は疲労と睡魔との戦いが待ち受けているのであった。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

国道9号に復帰

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

左手の旧道へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

沓掛に到着

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

明智軍もここで休息をとったという

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

ここまで約12km。まだまだ先は長い…

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】沓掛までの山下り

老ノ坂越え(篠村八幡宮~老ノ坂峠~沓掛)ルートMAP

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その③】沓掛~樫原~桂川

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その③】沓掛~樫原~桂川
洛西の住宅街を進軍する

時刻は1時を少し過ぎたあたり。核心部である老ノ坂峠を無事に乗越し、いよいよ京都市内へと突入した。沓掛は京への道と西国への道の分岐点で、ここを東へと歩みを進めるということは、いよいよ京を目指すということになる。後半戦の最初は、洛西の新興住宅と竹林の混ざる一帯を抜けて、桂川を目指して進行していく。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける
洛西らしい竹林を抜ける

老ノ坂峠あたりから流れてきた小畑川が少し右手下に見える、山際の少し高くなったあたりを縫ってゆく旧山陰道(県道142号)をひたひたと進んでいく。道中には、信長討伐の直前に光秀が戦勝を祈願した愛宕神社のある「愛宕山」の文字が刻まれた常夜燈が一定の間隔で道の脇に置かれている。「愛宕山」の文字が目に飛び込んでくるたびに、大いに歩みを後押ししてくれる。

沓掛を過ぎれば、もはや西国へ向かう意思はなく、京を目指すということになる。光秀はその動きを悟られてはなるまいと、家臣の天野源右衛門を呼び出し、この先、信長に事を注進する可能性のある疑わしき者は切り捨てよと命じたという。夏場の畑仕事で、早くに起きて作業をしていた農民たちが何十人も切り捨てられたという言い伝えもある。

さて、しばらくは県道142号を道なりに進んできたが、大枝小学校の手前のY字路で、現在の旧道を離れて、さらに古い時代の山陰道へと進む。先ほどのバス道となっていた道とは異なり、細い生活道となり、また地形に合わせて細かく折れ曲がり起伏もある。しっかり地図を確認しながらトレースしていく。住宅地と住宅地の間は、洛西らしい竹林が点在し、そこは当然薄暗い。

しばらく進んでいくと、右手の下の方が明るくなってくる。現在の山陰道である国道9号の広々とした道や、ロードサイドの店舗の明かりだ。こちらの道は左手の竹林に押されてほとんど消えかかりそうなほど細くなってきたが、どうにかパチンコ店の脇で国道9号線に出た。

樫原秤谷の交差点で国道を渡るが、ここで問題が発生する。この先ほんの数十mであるが、先ほどパチンコ店の脇へ降りてきた一番古い旧道が、国道をまたいで存在するはずなのだが、鉄工所の脇の深い茂みに覆いかぶされて通行ができない状態になっていたのである。通行を試みたものの、安全第一、そして本能寺へ到達することを優先し、その部分の通行を断念した。再び樫原秤谷の交差点へ戻り、そこからため池沿いに進む旧道(県道142号)を進む。とはいえ、住宅地の道へと入り、反対側の様子を確認するとこちら側もやはり通行は難しいと思われる。

そのまま取って返し、住宅の間をゆっくりと下っていき、三宮神社のところで再び県道142号と合流を果たす。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

愛宕山の常夜燈が街道沿いに連なる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

大枝付近で左手の旧道へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

住宅地から薄暗い竹林へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

樫原秤谷で国道9号をまたぐ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

国道9号を渡った先、ほんの数十メートルだが、通行不能の区間あり。その両端の様子

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

遠く洛中の明かりを見ながら緩やかに下っていく

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛西の住宅地と竹林を抜ける

三宮神社のところで山陰道と合流する

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】樫原陣屋跡

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】樫原陣屋跡
樫原陣屋の本陣

坂を下り切り、街道を少し進むと、樫原(かたぎはら)陣屋跡に到達する。ここは山陰街道の最初の宿場町でもあり、また西国街道につながる物集女街道と交差する交通の要所でもあった。

江戸時代には大いに繁栄し、西国外様諸藩の参勤交代の大名行列が宿舎を構える本陣が置かれた場所である。なぜこの地に本陣が置かれたかと言えば、それは大名行列は決して京(洛中)を通過しなかったためである。その理由は、京には天皇のいる朝廷があり、大名行列を理由に勝手に京へ入れば、ひそかに朝廷と通じることができてしまうためで、大名が江戸幕府に対して反旗を翻す機会を持つことがないようにするためである。そのため大名行列は洛中を避け、南の伏見へ回り、大津へ抜けて東海道へ入るルートを取ったという。

その後、淀川水運の隆盛などで樫原の宿場町としての役割は低下してゆく。現代となっては、また京都市内で唯一残る本陣の遺構となり、また宿場町として栄えた当時の面影が残る古い街並みが残されることとなった。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】樫原陣屋跡

山陰道がいかに栄えていたかがうかがえる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】明智川(小畠川)

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】明智川(小畠川)
明智川の通名は、統治者としての高い評価と領民からの尊敬の証でもある

樫原宿のはずれ、物集女街道との交差点の脇に、小畠川という小さな川(実は嵐山の渡月橋付近から引かれた灌漑用の用水路)がある。またの名を明智川といい、言い伝えが残されている。

信長を討った光秀が、引き上げる途中、この地で落馬をしてしまった。それを見た地元の農民が少しは落ち着きなさいと、おにぎりや腰掛を差し出してもてなした。すると光秀は礼を言いながら、東に昇る煙を指さして、あの火事は何処のものかわかるか、もし言い当てたら望みの物を与えようと言うので、農民はあっさり本能寺と答えた。そこで光秀が望みの物を訪ねると、この一帯の水田は水が不足しているから、川を造って水を引いてほしいとお願いをされたので、光秀は直ちに着工したというのである。

実際には、本能寺の変の直後に山崎の戦で秀吉に敗れるのであるから、史実とははっきり異なるのではあるが、丹波平定の際に、信長の命で光秀はこの一帯の灌漑工事を行っており、それらに対する農民たちの感謝と尊敬の念がそのような話を生んだとされる。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達
樫原で物集女街道をまたぐ

樫原宿を過ぎてもなお、県道142号をそのままトレースしていくと、周囲はすっかり現代的な住宅街に様変わりしてくる。さらに東へ進むと、阪急京都線の桂駅のすぐ南にある踏切がありそれを渡る。

阪急線を渡った先で、旧道は複雑に折れるのだが、そこは愛宕山の常夜燈が目印となって、それに導かれるように進んでいく。大きな桂川街道をまたげば、前方左手に桂離宮があり、その先が桂川である。

そうして、いよいよわが軍勢は桂川まで到達!!時刻は2時を少し回ったところ。ようやく洛中の目前までやってきたぞという安堵感とともに、足の疲労と睡魔が2人に襲い掛かる。ひとまずは橋のたもとで眺めの休憩を入れる。

そしていよいよ本能寺討入までのラストスパートに入ってゆく。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

桂駅付近で阪急京都線をまたぐ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

愛宕山の常夜燈が細かく曲がりくねった山陰道の道しるべとなる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

桂大橋に到着

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

桂川

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

疲労と睡魔が容赦なく襲う

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川到達

老ノ坂越え(沓掛~樫原~桂川)ルートMAP

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その④】桂川~七条通~本能寺

【本能寺の変 老ノ坂越え 実踏レポ その④】桂川~七条通~本能寺
いよいよ桂川を越えて洛中へ。敵は本能寺にあり!

6月2日未明、丹波亀岡城から進軍してきた明智の軍勢は桂川に差し掛かる。ここで光秀はお触を出し、馬の沓を捨てさせ、足軽には火縄に火をつけるように命じた。そして「敵は本能寺にあり」と発し、桂川を渡ったとされている。※これはのちに江戸時代に書かれた頼山陽の『日本外史』に記述されたもので、同時代史料には光秀の実際の言葉とされる記述はない

一説によれば、明智勢は複数のルートに分かれて京へ攻め入ったとされ、今回実際に歩いている老ノ坂越えの他にからと越え、明智越えの2つのルートがあるが、策が漏れるのを防ぐため、ぎりぎりまで光秀が真の目的である信長討伐を兵に知らせなかったとすれば、全軍が集結して、その触を出すには、洛中に入る前=桂川を渡るタイミングだったのではないだろうか。いずれにせよ、桂川を渡ってしまえば、もう後には戻れない。明智軍は一気に戦闘態勢となって緊張状態が生まれたはずである。

一方、我々編集部部隊はというと、そんな緊張状態とは真逆、疲労と睡魔に襲われて満身創痍である。しかし、こちらもこちら、ここまで来て引き返すわけにはいかぬ。重い腰を上げて、向かうはいざ本能寺。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川を越え七条通へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川を越え七条通へ
桂大橋西詰を出立

桂大橋の西詰を出発し、桂大橋を渡る。光秀が桂川を越えたころには夜は明けていたとされるが、朝はまだ遠い。川の水面には月がくっきりと映し出されて思わず見惚れる。改めて気を引き締めていざ洛中へ。

明智勢がどの場所から桂川を越えたのかは定かではない。当時、大軍勢が渡れるような橋が架かっていたわけはないので、おそらく渡渉したと思われるが、古くから流れが速く、幅広い桂川を渡れるポイントはそれほど多くなかったであろう。

桂大橋を渡り切り、東詰の交差点を左折する。実はここからすでに七条通が始まっていて、八条通と西の起点は同じなのだ。しかも大きく蛇行を繰り返して、葛野大路通りの地点でようやくストレートの道となる。しかし、よく知られているJR京都駅のすぐ北側を堂々と走る東西の大動脈の姿とはまるで雰囲気が異なる。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川を越え七条通へ

桂川を渡る

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川を越え七条通へ

曲がりくねった細道の七条通のはずれには、いまだ愛宕山の加護が続く

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】桂川を越え七条通へ

天神川を渡ればいよいよ洛中は目前

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻
ひたすらまっすぐに東へ進む七条通

天神川を渡れば西京極だ。葛野大路通りと交差する葛野七条の手前で七条通は直線の道となるが、まだ昔の街道然とした狭い道である。それが西小路通(平安京の恵止利小路)の手前、紙屋川旧流路を越えると一気に大通りとなる。

ここからは単調な一本道がしばらく続くのだが、そうなると疲労と睡魔が足取りを重くさせる。2人ともほぼ無言のまま淡々と進んでゆく。月読橋で西高瀬川を渡ってほどなくして、西大路通。この辺りで、朝3時を回る。新聞配達員や犬の散歩をする人など、朝の早い人たちがちらほらと目にするようになってきた。こちらの衣装を訝しげに見つめてくるが、臨機応変に対応できる体力は残念ながら残っておらず、黙々と歩くしかない。戦前戦後の時代には栄えていたであろう商店街のアーケードをひたすら東へと進む。

前方に高架が表れ、それがJR山陰本線(嵯峨野線)。2019年に開業したばかりの梅小路京都西駅の下をくぐる。この高架にピタリと沿うように北からやってきたのが千本通で、これは平安京の朱雀大路である。

さらに進んで七条堀川のところでたまらず休憩をとる。2人ともさすがに疲労の色が濃くなってきた。しかし、残すは七条から四条まで上がるのみだ。

七条堀川で堀川通を渡って、すぐ1つ目の稼働を左折し、油小路通を北上する。明智軍は市中に入ると、諸隊ごとに分かれて進行して、できるだけ手早く目的地へ急ぐように指令を受けていたというが、具体的な進路までは不明だ。山陰街道からそのままつながる七条通という大きな通りを進み、ロスなく迅速に本能寺を目指すとすれば、寺のほぼ正面に出ることのできる油小路通は妥当な選択肢の一つだろう。

古い町家と、真新しいホテルやゲストハウスなどが軒を連ねる油小路通をひたすら北進する。長大な五条通を渡り、高辻通、四条通と渡り、いよいよ目的の地、本能寺に到着した。時刻は午前4時を少し回ったところ。明智勢が本能寺を完全に包囲したのが曙の頃(午前4時ごろ)というから、我々もどうにか討入に間に合ったことになる。しかし、ここまではあくまで前哨戦で、実際にはいよいよここから生死をかけた本気の戦が始まるわけで、夜通し歩いてすっかり疲弊してしまった我々にもうそんな体力は残されていない…。改めて、昔の人たちのタフぶりには驚くばかりである。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻

西大路通を渡る

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻

七条堀川でたまらず休憩

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻

七条通に別れを告げ油小路通へ

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】洛中侵攻

油小路を北上中。もう一息!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!
本能寺跡記

この地に本能寺があったという碑は、油小路通と蛸薬師通の南東角と、もう一つ東の筋の小川通との南西角の2か所、ともに本能老人ホームの敷地内に立っている。日本史最大の事件のあった場所にしては随分とひっそりとしている。これはのちに秀吉が命じて、現在本能寺がある場所(京都市役所の南向かい辺り)へ寺を移転させてしまったこともあるだろう。

実際には、当時本能寺があった場所は、この2つの碑が立つブロックのもう一つ北側、南北を蛸薬師通と六角通に挟まれ、東西を油小路通と西洞院通に挟まれた、現在の元本能寺町のあたりである。石碑の立つ、小川通のあたりに正門があったとされる。

さて本能寺の変である。明朝4時には明智勢が寺を一斉包囲した。寺内にはほとんど手勢はおらず、門も空きっぱなしであったという。明智勢が四方から攻め入った際、織田信長は最初、小姓同士の喧嘩だと思ったそうだが、しばらくして御殿に鉄砲が撃ち込まれると、森蘭丸に様子を見に行かせたところ、「明智が者と見え申し候」と伝えたので、信長は「是非に及ばず」と一言言ったと云われている。通説には、光秀の仕業であれば、それはもう用意周到に計画されたもので、もはや脱出は不可能であると観念した言葉と解釈されている。それでも信長は最初は弓、続いて長槍で応戦したが、肘に負傷を受けて内へ退いた。その頃にはすでに御殿には火がかけられていた。信長は殿中の奥深くに篭り、そこで切腹して果てた。ちなみに、ドラマなどでよく、燃え盛る炎の中、信長が「人間五十年~」と最後の舞(敦盛)を舞うシーンがあるが、あれは創作で、実際に舞ったのは桶狭間の戦いの前夜だといわれている。

この討入がすべて終了したのが午前8時(辰の刻)前だとされている。光秀の起こした変は成ったのである。しかし、戦後、明智勢の必死の捜索にもかかわらず、肝心の信長の遺体を発見することができなかった。信長の首を手にできなかったことが光秀にとっては致命的な誤算であった。こののち、信長が生き延びたという説を否定できなかったことで、他の武将が光秀に味方することを躊躇させたのである。このことで、秀吉勢が光秀討伐を行う猶予を与え、明智勢にとって圧倒的に不利に働くこととなり、光秀はいわゆる”三日天下”に終わることとなる。

ということで、「本能寺の変 明智光秀行軍ルート(老ノ坂越え)」は無事にチャレンジ成功と相成りました。約25㎞の道のりを、約6時間かけ、疲労と睡魔、そして闇と闘いながら歩き通すことができました。かつて実際に起こった歴史的な出来事に思いを馳せ、それらの遺構をたどりながらのウォーキングは実に興味深いものとなりました。

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

無事に25㎞の夜道を完走!!

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

無事到着しましたが、もう戦えません…

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

実際はひとつ北側のブロックにある元本能寺町が本能寺のあった場所とされる

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

本能寺址の碑

【本能寺の変 老ノ坂越えルート】本能寺到着!!

老ノ坂越え(桂川~七条通~本能寺)ルートMAP

【本能寺の変 ルート解説】老ノ坂越え

【本能寺の変 ルート解説】老ノ坂越え
王子神社の向かいから山陰古道を下っていく辺り。真夜中とは雰囲気がまるで違う

「本能寺の変 明智光秀行軍ルート(老ノ坂越え)」は無事にチャレンジ成功と相成りましたが、実際記事にしてみると、ほとんどが真っ暗な写真ばかりで、実際のスポットの様子がわかりづらいものでした。ということで、「実際にはこういう場所を歩いてました」編です。ぜひ真夜中と昼間の違いを感じてみてください。すでに紹介済みのスポットばかりで内容が重複するため、具体的な解説は省いて、サクッと紹介していきます。

まずは、スタート地点となった明智光秀公像です。丹波亀山城址をバックに凛々しいお姿です。大河ドラマ『麒麟がくる』の決定に合わせて建立され、亀岡市の新たな観光資源として期待されています。像の制作は、亀岡市内在住の彫刻家、とーじ・まサトシ(田路雅俊)さんの手によるもの。光秀公の下に広がるのは、亀岡の冬の風物詩である「朝霧」をデザインしたものなのだとか。

丹波亀山城址を背後に立つ明智光秀公像

年谷川(千本松(野橋立)跡)

年谷川(千本松(野橋立)跡)
のどかな風景が広がる

亀山城下を抜けた先にある年谷川の様子。両岸はよく手入れされ、のどかな風景が広がっています。写真奥の山並みの右側がもう1つのルートと云われている「からと越え」で、左側が「明智越え」、その山の間を大堰川(桂川)が流れて保津峡を形成しています。

山陰道

山陰道
交通量の多い抜け道

昼間の山陰道の様子です。国道9号が京都から老ノ坂峠を越えて、最初の信号「王子」から分岐した県道402号線は、国道の裏道・抜け道として、昼間は交通量がかなりあります。

道の両脇には古い町家や屋敷が点在し、真直線ではなく旧街道らしい心地の良い自然の形状をした道は街歩きに適した歩きやすい道です。

篠村八幡宮

篠村八幡宮
篠村八幡宮

亀岡側の最初のポイントである篠村八幡宮は、延久3(1071)年に勅宣により、河内源氏の棟梁・源頼義が誉田八幡宮から勧請し建立したとされる古刹です。高い木々に守られるようにして佇む本殿と旗立楊ですが、ここが歴史の大転換の発端地とは思えぬのどかな光景です。

篠村八幡宮

本殿

篠村八幡宮

旗立楊

山陰古道

山陰古道
小さな棚田が広がる小径

王子神社の手前からいよいよ漆黒の山陰古道へ分け入った場所です。昼間はこのようなちょっとした散歩歩きにはぴったりの田園風景が広がります。すぐ左手の山の上をもう1つのルート「からと越え」が走っています。

王子神社から国道9号線との合流地点までは、一番古い(平安時代以前の)山陰道の面影が今なお残る貴重な区間と云われています。歴史好きなら、古代ロマンに思いを馳せながら昼間に散策してみるのもおすすめです。

山陰古道

王子神社の向かいから古道へ下る

山陰古道

船着場と三軒家

山陰古道

雑木林の坂

山陰古道

からと越えルートへ抜ける中の谷林道との分岐

老ノ坂峠

老ノ坂峠
小さな峠

今回のハイライトである老ノ坂峠です。両側には竹林が生い茂り、昼間でも往来はほとんどなくひっそりとした峠です。京都府による「京都の自然二百選」にも選定されています。

真夜中の歩きでは気づかずにスルーしてしまっていたが、峠を少し進んだところにある京都西山トレッキングコースの入り口の脇に小さな石碑があり、そこには「従是東山城國」(これより東 山城の国)と刻まれ、丹波国と山城国との国境が明記されている。

老ノ坂峠

丹波国と山城国との境を示す石標

首塚大明神

首塚大明神
首塚大明神

今回のチャレンジの中で、最も肝を冷やしたのがこの首塚大明神です。鬼の頭領・酒呑童子の首を祀ったとされ、京都最強の心霊スポットとも名高い小さなお社です。夜中にはさすがに鳥居をくぐってお社まではたどり着きませんでしたが、昼間でもこのように薄暗く、居心地の悪い感じです。

もともとこの老ノ坂峠一帯は平安京を穢れから守るための四隅の結界点で、盗賊や犯罪者など都を追われたもの、あるいはそれが転じて鬼や妖怪の住まう地として人々におそれられた場所です。ちなみに、四堺はこの北西の大枝(老ノ坂)のほかに、南西の角は山崎、北東の角は和邇、南東の角は逢坂の4地点が定められました。

首塚大明神

首塚大明神のお社

未舗装区間

未舗装区間
約1km弱の未舗装区間

首塚大明神の脇から、京都霊園の脇まで続く未舗装区間です。ほとんど人が歩いていないためか、きちんとした山道問よりも獣道に近いような状況です。小さな谷の溝の底を歩くような形なので、滑落や道迷いの心配はあまりないように思いますが、何しろ光も音も届かない山の奥です。さすがに真夜中にここを歩くのはなかなかのチャレンジでした。

未舗装区間

まさか橋の下をくぐるとは…

未舗装区間

昼間でも薄暗い

未舗装区間

京都霊園の真横を通る

明智川(小畠川)

明智川(小畠川)
小さな用水路

樫原陣屋の東の端にある明智川(小畠川)です。灌漑用の小さな水路ですが、このような水路が桂川からいくつも引かれて、洛西の地を潤しています。公称名・洛西西幹線用水路は、嵐山にある渡月橋畔の大堰川から別れ、洛西の地を南北に流れたのち、西羽束師川となって横大路で再び桂川に流れ込みます。

川の解説板の下には「勤王家殉難地」の石碑があります。これは元治元(1864)年に起こった禁門の変(または蛤御門の変)に敗れた長州藩士ら3人が幕府方の追っ手によって斬殺され、見かねた農民が手厚く葬ったことを示すものである。実際に葬られた志士の墓は、さらに西方の山手、我々が夜間ルートで通過できなかった森の中にある。

明智川(小畠川)

明智川の言い伝え

桂川と七条通

桂川と七条通
桂離宮の横にある桂大橋

京都側のチェックポイントである桂川。今回渡った桂大橋には、かつて「桂の渡し」が設けられていた場所です。桂大橋西詰には、17世紀に創立された桂離宮がありますが、桂の地は平安時代から貴族の別荘地、とりわけ観月の名所として知られた場所です。また、桂離宮の南向かいには創業120年の人気の甘味処「中村軒」があります。

桂大橋の東詰を西の発端として、七条通が北向きに、八条通が東向きに延びていきます。七条通は、桂川と現在の天神川のほんの短い区間で、蛇行を繰り返しながら一条分北へ上がるという、なんとも不思議な構造になっています。これは、この一帯が古くから頻繁に川の氾濫に見舞われてきた地形的なものと関係がありそうです。

桂川と七条通

七条通の西のはずれ

本能寺跡

本能寺跡

最後に本能寺。本能寺に関する碑は実は、先日の2つのほかに、もう一つ、本能老人ホームの敷地内に木札があります。

また本能寺は、本能寺の変も含めて、度重なる火災のよる消失に遭ってきたことから、「能」の表記を、「ヒヒ」が火火(炎)を連想することを嫌って、特別な字体(伝統的楷書)を用いる。(書体が存在しないため、本能寺址碑の画像を確認してみてください)

本能寺跡

本能寺址

【本能寺の変 ルート解説】からと越え

【本能寺の変 ルート解説】からと越え
からと越えルートから愛宕山と保津峡をのぞむ

明智光秀が織田信長討伐のために本能寺へ向かったルートには諸説あり、今回歩いた「老ノ坂越え」のほかに、「からと越え」「明智越え」の2つのルートが存在します。また、光秀は信長に気取られぬように軍勢を3つに分けて、それぞれのルートで兵を進めたという言い伝えもあります。そのため、残りの2ルートについてもそれぞれ解説していきます。

まずは、「からと越え(唐櫃越)」です。保津峡の南側に広がる京都西山の山塊を、馬堀から上桂までを結ぶルートで、すぐ南側の眼下には老ノ坂越えのルートである山陰道をのぞみながら進みます。

この道は古くから山城国と丹波国をつなぐ道として存在していましたが、山陰道よりも距離が短い反面、標高400mほどの山道を進む難所であったため、山陰道が官道(公のメイン通り)であったのに対して、間道(抜け道)または軍道としての役割にとどまりました。何らかの理由で官道である山陰道を通行できない事情がある場合や、急ぎの用事で早くに山域を抜ける場合、あるいは敵の意表を突いて進軍したり敗走する場合に用いられた道です。

【本能寺の変 ルート解説】からと越え

からと越えルート

JR馬堀駅からのアプローチ

JR馬堀駅からのアプローチ
JR馬堀駅

亀岡駅の1つ前のJR馬堀駅が「からと越え」ルートスタート地点となります。小さなロータリーがあり、角にコンビニがあるので補給品の準備などはここで済ますことができる。

駅前には具体的な「からと越え」へのルート案内はないが、駅を出て向かって左側の山の方向へ向かって進んでいけば問題ありません。そのうち、鵜ノ川という小さな川にぶつかります。その辺りには「からと越え」の案内板が出ているので、それに従って進むことができます。

川を渡って、案内に従って「如意寺」を目指して山の方面へ進んでいきます。如意寺のあった場所は、かつて明智軍の丹波侵攻の際に案内役を務めた領主宇野氏の居城・山本城があった場所。宇野豊後守秀清は光秀から信長討伐の協力を断り、逆に光秀を諫めたため、暗殺されたと云われている。

からと越えの登山口は、この如意寺の敷地の脇にあり、本ルートの簡単な解説板も設けられています。

JR馬堀駅からのアプローチ

鵜の川を渡る。目の前の山並みがからと越え

JR馬堀駅からのアプローチ

案内板に従って進む

JR馬堀駅からのアプローチ

如意寺

JR馬堀駅からのアプローチ

如意寺からの眺め。中央のタワーマンションの辺りがJR馬堀駅

JR馬堀駅からのアプローチ

からと越えの登山口

みすぎ山周辺

みすぎ山周辺
獣除けの柵を越えていく

登山口を少し進むと、目の前に獣除けの柵があります。この辺りでは野生のシカやイノシシが出没するため(時にはクマの目撃も)、田畑を荒らされないように柵が設けられているのです。通過したら、責任をもって扉を閉めましょう。

柵を越えて進んでいくと、しばらくは石垣のようなものがある斜面を進んでいきます。この登山道は、稜線に対して直角につけられており、直線的に登っていくので、急な斜面が続きます。40分ほどの格闘ののち、標識のあるポイントで道は直角に右へ折れます。そこが稜線に出るポイントで、厳しい登り区間はここまで。

稜線上の道は比較的平坦で歩きやすく、10分ほどで鉄塔のあるポイントに出ます。ここが標高430mのみすぎ山です。ここは両サイドの眺望が開けており、北の方角には愛宕山が見え、南側には亀岡市街が見渡せます。写真の下部、ふもとに緑が左右に連なっている辺りが、旧山陰道=老ノ坂越えルートです。隊を分けて進行しても、この距離であれば、あちら側と合図を出し合うなど連携して進軍することが可能だと思われます。

みすぎ山周辺

道はわかりやすくついている

みすぎ山周辺

小さな溝を進む

みすぎ山周辺

ここで尾根に出る。急登はここまで

みすぎ山周辺

みすぎ山

みすぎ山周辺

山陰道=老ノ坂越えルートをのぞむ。篠村八幡宮のあたり

みすぎ山周辺

愛宕山をのぞむ

愛宕山と保津峡の絶景

愛宕山と保津峡の絶景
北側の眺望が開ける

みすぎ山から先は、尾根伝いの歩きやすい道が続きます。しばらく進むと、道の左手が開けており、今ルート随一の絶景ポイントが待ち受けます。

奥にそびえる愛宕山の手前には、見事に蛇行する保津峡が流れている。そしてその蛇行を縫うようにして、一直線にJR山陰本線が山間を貫いている。低山であるが、なかなか見ごたえのある絶景です。

亀岡盆地は太古には赤い波の立つ湖(丹の湖)であったといわれ、それが「丹波」の語源とも伝えられている。また、出雲神話で有名な大国主命(おおくにぬしのかみ)がこの保津峡を開削、湖の水を抜いて盆地を開拓したという蹴裂伝説がある。

京北の佐々里峠付近を発端とする桂川が蛇行を繰り返しながら亀岡盆地へ至り大河となるが、この盆地からさらに下流へと逃れる唯一のポイントが保津峡なのです。

この絶景ポイントを過ぎると、車も通行できる整備された道に出ます。

愛宕山と保津峡の絶景

保津峡を縫うJR山陰本線

愛宕山と保津峡の絶景

京都西山の山々

愛宕山と保津峡の絶景

よく整備された尾根道

林道歩き

林道歩き
舗装された林道歩きになる

尾根伝いに整備された道を進んでいきます。起伏も穏やかで歩きやすいですが、山歩きには少し物足りないかもしれません。さらに進んでいくと、広い駐車場のようなスペースに出て、そこから先は舗装された林道歩きとなります。
ルートは道なりなので、迷う心配もありません。

途中で、ふもとの老ノ坂越えルート(山陰古道)から分岐した中の谷林道と出合います。約1時間ほどの林道歩きをこなすと、前方に標識が出ている分岐点に出ます。ここで舗装道を離れ、からと越えの案内に従って左手の山道へ分け入っていきます。(まっすぐ舗装道を進むと老ノ坂峠付近にある西山団地に出ます)

林道歩き

程よいアップダウンのある歩きやすい道

林道歩き

老ノ坂越えルートに続く中の谷林道との出合

林道歩き

案内板に従って左手の山道へ

沓掛山周辺

沓掛山周辺
自然災害による倒木が多いエリアなので、標識を確認して進む

山道に入るとしばらくは穏やかな下り基調のトレイルになりますが、他の京都周辺の山々同様、この一帯でも長年の台風被害による倒木がそのままになって道は荒れており、行く手を遮る箇所が多数あります。十分注意して越えていきましょう。また迂回しなければならない場所では、点在する標識や道しるべのテープを確認して道迷いのないようにしましょう。

この辺りでは場所によっては道幅1mに満たない馬の背のような場所もあり、大軍が通過するには少し難があるように思えます。そもそも、このからと越えルートは古くから難所として知られており、もし分隊してこのルートで軍を進めたとして、夜間行軍であったことを考えても、少数精鋭の部隊のみが通過したのではないだろうか。

基本的に道は下り基調で、場所によって右手側に老ノ坂峠のある大枝山や洛西ニュータウンが木々の間からのぞき見えます。林道別れから約1時間ほどで、標高415mの沓掛山に至ります。沓掛山はからと越えルートから少し離れていますが、案内板があるので見落とす心配はありません。

沓掛山周辺

ここからは下り基調の道

沓掛山周辺

遠く洛中の町並みが見えてきた

沓掛山周辺

いたるところで倒木が立ちふさがる

沓掛山周辺

沓掛山

上桂駅まで

上桂駅まで
沓掛の町並みが見える

沓掛山の山頂からからと越えルートに戻り、引き続き下り坂を進みます。しばらく進んでいくと、桂坂野鳥公園の敷地一帯へ入り込みます。この辺りはふもとの洛西ニュータウン方面への降りるルートがいくつもあり、分岐が多いので、案内板でからと越えとある方向を確認して進みましょう。

さらに尾根道を進むと、東側が開けた展望地に至ります。ここからは手前に松尾山があり、その奥に流れる桂川が蛇行している様子が見えます。さらにその先には京都の市街地が広がっています。小さくですが京都タワーもうっすらと確認できます。そして向こう側の山並みは東山で、中央左寄りの小高いところが、大文字山のある如意ヶ嶽。

展望地から、ゆるやかに左へ弧を描きながら一気に下っていくと、周囲が雑木林から竹林へと植生が変わってきます。竹林をずんずん進むと、丁塚という場所に出ます。さらにもう少し進めば、小さな墓地に出て、山道は終了です。

墓地を抜けてさらに竹林を進めば、からと越えルートの京都側の起点に出ます。そのまま道なりに東へ向かえば阪急上桂駅にでます。亀岡のJR馬堀駅から京都の上桂駅まで約13㎞の道のりで、休憩を含めて4時間ほどで歩き通すことができます。最初の登り口の急登を除けば、比較的穏やかで歩きやすいルートで、ハイキングにおすすめです。

さて、老ノ坂越えの軍勢と合流するとして、山陰道が桂川と交差する地点は目と鼻の先です。また道中も、常に両軍勢が動向を確認し合える距離感を保つことができます。一方で、途中には険しい難所があり、馬を従えて多勢で夜中に通過するのは難があります。このルートを選択したとすれば、少数精鋭の部隊が斥候として先行するなどといったことが考えられるのではないでしょうか。

上桂駅まで

桂坂野鳥遊園のあたりは分岐が多いので案内板に従って進む

上桂駅まで

洛西ニュータウンをのぞむ

上桂駅まで

展望地

上桂駅まで

松尾山と桂川、そして京都盆地。向こう側には比叡山から続く東山の山並み

上桂駅まで

竹林を進む

上桂駅まで

丁塚

上桂駅まで

墓地で山道は終了

上桂駅まで

からと越えルートの京都側の起点

上桂駅まで

阪急上桂駅

【本能寺の変 ルート解説】明智越え

【本能寺の変 ルート解説】明智越え
緩やかで歩きやすい明智越えルート

本能寺の変で明智軍が進んだとされる3つのルートの最後は、ズバリ「明智越え」です。亀岡市保津町から柚子の里で知られる水尾を経て、嵯峨野の鳥居本へと至る約15kmほどのルートです。他の2ルートが保津峡の南側の山域を並走するように進むのに対して、この明智越えは、保津峡の北側、愛宕山のふもとを抜けていきます。現在ではハイキングコースとして整備され、比較的歩きやすい道となっています。

明智光秀は山城国と丹波国を行き来する際、度々このルートを往還しています。また、本能寺の変の直前や丹波国攻略など戦の前には、愛宕山山頂にある愛宕神社に参拝し戦勝祈願を行うなど、光秀とゆかりの深いルートです。

【本能寺の変 ルート解説】明智越え

明智越えルート

JR亀岡駅からのアプローチ

JR亀岡駅からのアプローチ
正面奥が愛宕山。前方右手の山が明智越え

スタート地点はJR亀岡駅。北改札を出ると、真新しい巨大なサンガスタジアムがお出迎え。ぐるっと回り込むようにして桂川へ出て、保津橋を渡ります。橋の欄干からはぐるっと亀岡盆地を見渡すことができます。橋の対岸には今から向かう明智越えの山が待ち受けます。また南東方面に目を向ければ、老ノ坂峠やからと越えルートの山が見えます。

橋を渡って1つ目の信号(保津八幡宮のある場所)を右折します。ここから保津街の集落を抜けていきますが、途中には「明智越ハイキングコース」の看板があるのでそれに従って進みます。

集落の中心にある文覺寺のY字路を右へ取ります(ちなみに左へ行けば神明峠を経て水尾に至る)。この文覺寺の山門には桔梗の御紋が刻まれており、丹波亀山城から移築されたものではないかと云われている。

少しずつ上り坂となり、集落のはずれから山道に入るところが、明智越えの登山口となります。

JR亀岡駅からのアプローチ

JR亀岡駅前の立派なサンガスタジアム

JR亀岡駅からのアプローチ

保津橋より。右寄りの山の一番低い部分が老ノ坂峠、左手の山並みがからと越え

JR亀岡駅からのアプローチ

保津橋より。正面の山が明智越え

JR亀岡駅からのアプローチ

明智越ハイキングコースの案内板

JR亀岡駅からのアプローチ

文覺寺

JR亀岡駅からのアプローチ

分岐を右へ。左へ行けば柚子の里・水尾

JR亀岡駅からのアプローチ

いよいよ山に近づく

JR亀岡駅からのアプローチ

明智越えの登山口である簾戸口

保津城址~峯の堂

保津城址~峯の堂
明智越えハイキングコースの案内板

いよいよ明智越えに入ります。基本的に全区間がハイキングコースとして整備されており、道は明瞭で歩きやすいコースです。

雑木林へ分け入るようにして登山道を進んでいくと、すぐに少し広々とした空間に出ます。案内板によれば、ここにはかつて保津城があった場所です。この保津城は築城時期や築城者は定かではありませんが、南北朝時代には攻め落とされたという記録があるのでそれ以前から存在した古城のようです。現在でも、堀切や土塁など城郭の跡が確認できます。光秀の時代にも城が存在していたかどうかは不明ですが、愛宕神社への参拝路で、京へ続く交通路の起点に位置する場所なので、何らか詰所的なものが置かれていたかもしれません。

保津城址を左手から巻くようにして、少し急な登り坂を上っていきます。この一帯は古くから文化があったようで、古墳跡などコース上にはいくつもの史蹟の案内板が建てられています。

登山口から約40分ほどで、峯の堂(むねんどう)と呼ばれる場所にたどり着きます。案内板には清和源氏の祖として有名な第56代天皇である清和天皇が出家して隠遁生活を送り、この地で崩御され、祀られているとあります。また光秀が本能寺の変の直前に愛宕詣でをした帰りに、ここでも必勝を祈願したとあります。光秀の出自は土岐源氏の庶流と云われているので、源氏の祖である清和天皇を祀る社に祈願したとしても不思議はありません。本能寺の変には成功した光秀ですが、その直後に秀吉に敗れ、悲運の最期を遂げたことを嘆き、いつしかこの峯の堂が転じて無念堂に変わったということです。

保津城址~峯の堂

林の間から亀岡の町並みがのぞく

保津城址~峯の堂

保津城址

保津城址~峯の堂

緑の中を進んでいく

保津城址~峯の堂

石堂の森

保津城址~峯の堂

峯の堂

土用の霊泉まで

土用の霊泉まで
わずかの眺望。向こうに見えるのはからと越えの山並み

峯の堂からは歩きやすい尾根道が続きます。森の中を進むルートなので眺望はあまり期待できませんが、時折眺望が開けるところからは北に牛松山が見え、南側にはもう一つのルートであるからと越え(みすぎ山付近)も垣間見えます。道は明瞭で、要所要所に案内板が立っているので道迷いの心配もありません。ただ、この辺りも台風による被害で倒木が立ちふさがる箇所があったり、道が崩落しているところがあります。崩落の場所からは山の向こう側に嵯峨野の街並みが見えてきました。ただしあまり景色に見惚れてロープの外側に出ると危険なので要注意です。

しばらく進むと土用の霊泉という場所にたどり着きます。ここはどれだけ暑い夏の土用でも水が枯れることなく湧き出たといわれています。光秀は本能寺へ向かう際に、ここで止血止めの効果のある三七草を霊泉に浸して蘇らせ、それをお守りとして鎧の下に忍ばせたと云われています。付近にそれらしい湧き水のポイントがあるか探してみましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。

土用の霊泉まで

歩きやすい尾根道が続く

土用の霊泉まで

崩落現場は慎重に進む

土用の霊泉まで

向こうに嵯峨野の街並みが見える

土用の霊泉まで

土用の霊泉

土用の霊泉まで

土用の霊泉

水尾周辺

水尾周辺
明智越ハイキングコースを進む

土用の霊泉を過ぎて、さらに15分ほど尾根道を進むと2つ鉄塔をくぐるポイントに出ます。ここは眺望が効いていて、南側にはからと越えの山並みが、そして北西にはわずかに亀岡市街が見えています。本ルートはここまで広々とした場所がなく、この鉄塔の下は絶好の休憩ポイントになります。

鉄塔を抜け、さらに進むと、分岐点に到達します。ここを案内板に従って右へ進みます。ちなみにまっすぐ進めば、新明峠を経て水尾集落に至り、そのまま愛宕山の登山口へとつながっていきます。こちらは光秀が愛宕詣でをした際に通ったと思われる道です。

この分岐を少し下ると、左手の眺望が開ける場所があり、愛宕山が目前に迫ってきます。また、中腹には柚子の里として知られる水尾集落が広がっています。この辺りから道は一気の下りとなります。場所によっては道が深くえぐれて足場が悪く、歩きづらい箇所があるので、転倒しないように注意して下る必要があります。山道を下りきると水尾川という小川にぶつかり、明智越えハイキングコースはここで終了です。

水尾周辺

2つの鉄塔をくぐる

水尾周辺

向こう側にからと越えルートの山並みが見える

水尾周辺

明智越えは案内板に従って右へ

水尾周辺

愛宕山が目の前に

水尾周辺

水尾の集落が見える

水尾周辺

水尾川に出て、ハイキングコースは終了

保津峡周辺

保津峡周辺
水尾川に沿って歩く

水尾川とぶつかる分岐では、左手(北側)に水尾集落へ向かう道、右手(南側)にJR保津峡駅へ向かう道に分かれ、明智越えは右手になります。しばらくは水尾川のすぐそばを進む遊歩道が続き、快適に歩くことができます。そのうち、道は県道50号と合流しますが、この道は車やバイク、自転車などが行き交ううえに、見通しの悪い道なので、通行には注意が必要です。

30分ほど歩けば、JR保津峡駅にたどり着きます。ハイキングでは通常ここがゴールとなりますが、明智越えはまだまだ先へと続きます。この辺りは保津峡の核心部にあたり、桂川が亀岡盆地から唯一下流へと逃れる流れは狭隘な山間部を蛇行して険しい渓谷をなしています。亀岡から嵐山まで直線距離にして約7kmのところを約12kmかけて流れているのですから、いかに川が蛇行しているかがわかります。この保津峡は、京都屈指の景勝地であり、川下りやラフティング、トロッコなど観光名所にもなっています。

さて、県道50号は、その川の真上の断崖を進んでいきます。途中、トロッコの駅を対岸に見やり、その先のトンネルをくぐると、朱塗りの橋が架かる清滝川にぶつかります。

保津峡周辺

県道50号との合流地点

保津峡周辺

保津峡橋を渡れば駅

保津峡周辺

JR保津峡駅

保津峡周辺

険しい渓谷にかかるJR保津峡駅

保津峡周辺

トロッコ保津峡駅

保津峡周辺

荒々しい姿を見せる桂川

六丁峠

六丁峠
保津峡をのぞむ

清滝川を越えると、そこから道は一気に急なつづら折れの道となり高度を上げます。ここにきての急登はかなり厳しいものがあります。いくつものヘアピンを越えていくと、前方に嵐山・高雄パークウェイの高架が見え、そのました辺りのピークが六丁峠です。峠の向う側、嵯峨野鳥居本にある一の鳥居から六丁の距離にあることからこの名がつけられています。

六丁峠

清滝川

六丁峠

つづら折れの峠越え

六丁峠

高雄・嵐山パークウェイをくぐる地点が峠のピーク

六丁峠

六丁峠

鳥居本から嵐山

鳥居本から嵐山
鳥居本のシンボル一の鳥居

六丁峠を過ぎ、薄暗い森の道を一気に下ると、突如目の前に大きな鳥居が現れます。これが愛宕詣での起点となる一の鳥居で、嵯峨天皇の管理下で建てられました。この一の鳥居を1丁目として、愛宕山山頂の愛宕神社まで50丁あり、1丁ごとに丁石が置かれました。

この鳥居本の辺りは元々「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の埋葬の地でしたが、愛宕詣での門前町として栄え、今では伝統的建築物保存地区に選定される趣のある町並みが広がっています。鳥居本を下っていけば、京都随一の観光名所・嵐山です。

ということで、明智越えルート解説でした。一説によれば、この明智越えこそ、3つのルートのうち、光秀率いる本隊が通過したとされています。しかし、3つのルートのうち、京へ入るのに最も遠回りになるうえに、2度の登り返しがあり体力的にも厳しいコースです。迅速に事をなさねばならない状況下で、時間的ロス体力的ロスの大きいこのルートを用いることは考えづらいように思います。また、ほかの言い伝えにあるように、もし山陰道の篠村八幡宮で軍議を開いたとすれば、そちら側からわざわざ一度戻る形でこちらに兵を割いて進行させる必要もありません。ただし、本能寺の直前に愛宕詣でをしたことは間違いなく、光秀ゆかりの道であることは間違いありません。

鳥居本から嵐山

清滝方面からの道と合流する

鳥居本から嵐山

嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区

鳥居本から嵐山

趣のある街並みを進む

鳥居本から嵐山

いよいよ嵯峨野の街並みが近づいてきた

鳥居本から嵐山

嵐山の竹林を進む

鳥居本から嵐山

渡月橋

1 2

街歩き、登山、ロングライド、B級グルメ、地酒、産業遺産、名建築、聖地巡礼、アートetc.ニッチなスキ間にズームイン.体を張ってチャレンジしがち.

条件検索

エリア・ジャンルを指定してください