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渋沢栄一と近代建築~煉瓦の道~渋沢翁の功績とゆかりの地を訪ねて

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渋沢栄一と近代建築~煉瓦の道~渋沢翁の功績とゆかりの地を訪ねて

吉沢亮さん主演のNHK大河ドラマ「青天を衝け」。2024年度に新しい1万円札の肖像となる明治時代の実業家、渋沢栄一を主人公として、幕末から明治にかけて激変する日本を描いています。

渋沢栄一は「近代日本経済の父」とも呼ばれ、500以上の会社や事業の設立・発展に関わり、さまざまな場所に足跡を残しました。日本銀行、王子製紙、富岡製糸場、東京駅…誰もが知っている名前が次々と出てきます。

渋沢栄一の功績を辿りながら、ゆかりの地、気になるスポット、今につながるエピソードなどを交えてご紹介しましょう。
ここでは渋沢栄一と明治時代の街並みをつくった煉瓦をテーマに、富岡製糸場から深谷の日本煉瓦製造、そして煉瓦からコンクリートへと替わっていく近代建築ゆかりの地を辿ります。

渋沢栄一ゆかりの地「銀座煉瓦街」と世界遺産「富岡製糸場」

渋沢栄一ゆかりの地「銀座煉瓦街」と世界遺産「富岡製糸場」
開通間もない「陸蒸気」と再建された銀座煉瓦街が1枚の絵図に描かれています。銀座煉瓦街は新橋駅から続くメインストリートとして整備されました。出典:国文学研究資料館 日本実業史博物館コレクションデータベース

銀座煉瓦街をつくった隅田川沿いの煉瓦工場
煉瓦の製造はおよそ江戸時代の後半からです。製鉄に用いる反射炉の材料としての「耐火煉瓦」が主でしたが、通常の「赤煉瓦」が市中建築に広く使用されるようになったきっかけは、1872年(明治5年)2月26日、銀座・築地が焼け野原となった大火です。

鎮火後政府はすぐに大通りの拡張と、欧州にならった耐火構造である煉瓦造りの街にすることを決定します。原料となる粘土が豊富な隅田川沿岸の小菅や今の荒川区周辺に、瓦工場から転換した煉瓦工場が急設されて煉瓦を生産、東京名所にもなる「銀座煉瓦街」ができあがります。

煉瓦工場が立地した荒川区の隅田川沿いのエリアには、今も随所に煉瓦塀が残っています。

余談ですがこのとき小菅に造られた西洋式設備を持つ大規模な煉瓦工場は後に政府に買い上げられて監獄所の一部となり、西南戦争敗軍収監者の刑務として煉瓦製造が行われました。小菅の煉瓦製造は大正時代まで続き、東京湾の海堡(砲台)などに使用されたという調査記録があります。今は東京拘置所として知られています。

 

世界遺産 富岡製糸場
1872年(明治5年)に操業を始めた世界遺産、群馬県の富岡製糸場にも煉瓦が使われています。渋沢栄一は政府側の担当として設立に関わりましたが、煉瓦は渋沢栄一出身地の深谷から招聘された韮塚直次郎と瓦職人がフランス人から製法を学び現地周辺で焼いたものでした。

富岡製糸場は木の骨組みに煉瓦を組み合わせた和洋折衷工法の「木骨煉瓦造」で建設されました。提供:富岡市

富岡製糸場はフランス人の指導でつくられたため、煉瓦の積み方もフランス(フランネル)積みです。

富岡製糸場

住所
群馬県富岡市富岡1-1
交通
上信電鉄上州富岡駅から徒歩15分
料金
入場料=大人1000円、高・大学生(要学生証)250円、小・中学生150円、未就学児は無料/(20名以上の団体は大人900円、高・大学生200円、小・中学生100円(要予約)、障がい者手帳持参で本人と同伴者1名無料)

瓦斯灯から煉瓦工場へ

さて1874年(明治7年)12月、新たに煉瓦街となった銀座通りは、街灯として85基の瓦斯灯が設けられます。瓦斯灯は煉瓦の街並みを昼間のように明るく照らし、文明開化のシンボルにもなりました。

ここにも渋沢栄一の名が登場します。1876年(明治9年)、渋沢栄一は瓦斯を製造・供給する東京瓦斯局長の任にも就いていました。瓦斯製造用燃料の石炭調査のため今の群馬県高崎市に技師を派遣したところ、石炭は期待はずれでしたが代わりに耐火煉瓦用として良い粘土を発見、持ち帰って試作をすると舶来煉瓦に匹敵する品質の煉瓦ができました。

耐火煉瓦は瓦斯の発生炉に必要で、それまではとても高価な輸入煉瓦を使用していましたから、渋沢栄一と副局長の西村勝三は喜んで煉瓦工場を開設します。民間初の耐火煉瓦製造会社、後の品川白煉瓦製造所の誕生でした。

なお副局長であった西村勝三は、渋沢栄一の協力も得て様々な工業の発展に関わり、後に日本人の脚にあう西洋靴の開発製造に成功します。「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「リーガルコーポレーション」に繋がっていきます。

渋沢栄一ゆかりの地。埼玉県深谷市の「日本煉瓦製造」

渋沢栄一ゆかりの地。埼玉県深谷市の「日本煉瓦製造」
日本煉瓦製造で使われたホフマン輪窯6号窯(現在は保存修理中のため見学不可) 提供:深谷市

1986年(明治19年)、政府は時の欧化政策に基づき、官庁を東京日比谷地区に集中させて西欧様の都市を形成する壮大なプランを立案します。紆余曲折あって計画は大きく縮小されますが、この頃官公庁の建物や鉄道構造物への採用が増えてきた煉瓦を量産するため、渋沢栄一は上敷免村(現埼玉県深谷市)に煉瓦製造工場の建設を計画しました。

この地は利根川沿いの良質な粘土を使った瓦製造が盛んだったこと、また渋沢栄一の故郷に近く無償での粘土提供や、富岡製糸場で煉瓦を焼いた韮塚直次郎をはじめとして工場誘致への協力者が多かったこと、江戸時代より盛んであった利根川の舟運を利用できるなど、内陸ではありましたが煉瓦製造に適した場所でもありました。

1887年(明治20年)、日本煉瓦製造会社が設立され、辰野金吾設計による工場を建設します。それまで一般的だった手作業による煉瓦成形をあらため日本で最初の機械方式による煉瓦製造を開始、品質向上と大量生産を実現しました。

旧日本煉瓦製造事務所 提供:深谷市

埼玉県深谷市 旧煉瓦製造施設 詳しくはこちら

渋沢栄一ゆかりの地「信越本線碓氷峠」「東京駅」

渋沢栄一ゆかりの地「信越本線碓氷峠」「東京駅」
信越本線の碓氷峠の建設にも日本煉瓦製造の煉瓦が使われました。煉瓦積みで造られた写真の碓氷第三橋梁などが「碓氷峠鉄道施設」として国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造は日本銀行や赤坂離宮などの官公庁建物や神田万世橋付近の鉄道高架のほか、1891年(明治24年)から始まった信越本線・碓氷峠の建設工事にも煉瓦を供給しました。

碓氷峠の路線は1961年(昭和36年)に新線の開業で廃線となりましたが、近代化遺産として国重要文化財に指定された煉瓦造りの橋梁やトンネルなどが保存され、今も散策しながら当時の技術を偲ぶことができます。

煉瓦工場は明治30年頃には300人以上の工員を擁し、年間3700万個の煉瓦を製造する日本有数の規模になっていました。増産時に問題となった舟運の輸送力不足や輸送にかかる時間を解消するため、渋沢栄一は日本鉄道(現高崎線)の深谷から工場まで専用鉄道を敷設し、貨物列車でどんどん煉瓦を運び出します。

まもなく辰野金吾設計の東京駅舎の工事も始まり、日本煉瓦製造の煉瓦は重要な基礎部分に使われます。なお東京駅舎地上部の化粧煉瓦には「品川白煉瓦」製の煉瓦が全面的に使用されました。

東京駅の煉瓦は基礎に「日本煉瓦製造」、表面仕上用には「品川白煉瓦」の煉瓦が使われました。どちらも渋沢栄一ゆかりの「煉瓦」です。

めがね橋

住所
群馬県安中市松井田町坂本
交通
JR信越本線横川駅からタクシーで15分
料金
情報なし

渋沢栄一ゆかりの地「アサノコンクリート」

渋沢栄一ゆかりの地「アサノコンクリート」
隅田川に架かる新大橋から深川のセメント工場を遠望した明治期の絵図。新大橋は今の位置より下流にあったそうです。 出典:国文学研究資料館 日本実業史博物館コレクションデータベース

火災に強く西欧の建築様式を広めた煉瓦ではありますが、1891(明治24年)に発生した明治時代最大級の濃尾地震により、煉瓦建造物の倒壊が相次ぎ、施工方法によっては耐震性に問題があることが明らかになります。

東京駅などは耐震性を考慮した「鉄骨煉瓦造り」で設計されましたが、地震に弱いという弱点は払拭されません。また煉瓦の積み上げは職人の手作業に頼るので工期や費用がかかることもあり、やがて技術的に向上してきたコンクリート建築へとシフトしていきます。

1923年(大正12年)の関東大震災では王子にあった毛織物工場など多くの煉瓦建造物が倒壊する被害が発生、以降鉄筋コンクリートが時代の主流となりました。

渋沢栄一はコンクリートの主な材料となるセメント産業にも深く関与しています。1884年(明治17年)、隅田川沿いの官営のセメント工場が浅野総一郎に払い下げられ、浅野セメント深川工場が創業しました。

浅野総一郎は渋沢栄一の製紙工場にボイラー燃料用の石炭を納入するなど以前から親交がありましたが、セメント工場の運営など、以後渋沢から多くの経営的な助言や援助を受けることになります。

東京江東区の隅田川沿いには今も浅野セメントの流れを汲む「アサノコンクリート」のプラントが現役で操業し、一角には「本邦セメント発祥の地」の碑と創業者浅野総一郎の銅像が立っています。

東京都江東区清澄、隅田川に近い場所にある浅野総一郎の銅像とセメント発祥の地の碑。後ろにはアサノコンクリートの工場が見えます。

渋沢栄一ゆかりの地「秩父鉄道」とコンクリート

渋沢栄一ゆかりの地「秩父鉄道」とコンクリート
渋沢栄一も敷設に関わった埼玉県の秩父鉄道は私鉄有数の貨物輸送を行い、最盛期はほぼ24時間、石灰石やセメントを運ぶ貨物列車が運行されていました。いま「秩父セメント」は「秩父太平洋セメント」と名称が変わっています。

日本煉瓦製造会社に入社していた渋沢栄一の親類である諸井恒平は、明治40年代に秩父地方の石灰石に着目してセメント業を興しますが、ここにも渋沢栄一のバックアップがありました。

煉瓦からセメントへ転身して秩父セメントを設立、石灰石やセメントを輸送するための秩父鉄道社長を務めるなど「セメント王」とも呼ばれました。

1917年(大正6年)頃に始まった秩父武甲山の石灰石採掘には浅野セメントがあたります。渋沢栄一は煉瓦製造に注力しながらも、次に来るコンクリート時代を見通していたのでしょう。

横浜市の日本大通りには、1911年(明治44年)に建てられた日本初の鉄筋コンクリート製事務所ビル「三井物産横浜ビル」があります。

関東大震災でまわりの建物は倒壊しましたが大きな損傷はなく、110年余り経た今も現役の事務所として使われている希少な建物です。
三井物産は渋沢栄一が創設した製紙会社の出資社であり譲渡先であるなど関係を有した会社なので、もしかしたら晩年の渋沢栄一が訪ねていたかもしれません。

「三井物産横浜ビル」は今も「KM日本大通ビル」の名称でオフィスとして使用されています。ある賃貸不動産サイトでは「築103年」と記されていました。撮影:M・I

渋沢栄一ゆかりの地「常盤橋」と「日本銀行」

渋沢栄一ゆかりの地「常盤橋」と「日本銀行」
明治初期に石橋となった常盤橋。徒歩と車(人力車・馬車用)の通行区分を設けた当時としては先進的な構造でした。後ろの煉瓦建物は印刷局と記されています。出典:国文学研究資料館 日本実業史博物館コレクションデータベース

2021年5月10日に東日本大震災による被害からの修復工事が完了した東京千代田区の常盤橋。日本橋川に架かるこの常盤橋は、江戸城から日光街道方面へ通じる常盤橋門前にあって1877年(明治10年)に木橋から改築された、現存する都内最古の石橋だそうです。

関東大震災の被災後は隣に新しい橋が造られそのまま放置されていましたが、1934年(昭和9)に渋沢栄一の志を継ぐ財団により公園とともに整備された歴史をもっています。

橋のすぐ北側には日本銀行旧館が昔日の姿を伝えています。辰野金吾の設計により1896年(明治29年)に竣工した国重要文化財のこの建物にも、深谷・日本煉瓦製造の煉瓦が内部の構造材として使用されています。常盤橋公園には渋沢栄一の像が立てられ、日本銀行を背に江戸城方面を見つめています。

平成・令和の修理が完了した常盤橋。橋の向こうには日本銀行があります。すぐ近くでは高さ390mの超高層ビルと広場を備えた大規模再開発「TOKYO TORCH」プロジェクトが進行中です。

常盤橋公園に建つ渋沢栄一の銅像は太平洋戦争中の金属供出で撤去されましたが、戦後再建されました。

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ややヲタ系ネタを主流に昭和平成懐かし系を経由して昔は良かった方面に参ります。

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