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鎌倉幕府を開いた人物「源頼朝」が幕府の設置場所として鎌倉の地を選んだのはなぜ?

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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鎌倉幕府を開いた人物「源頼朝」が幕府の設置場所として鎌倉の地を選んだのはなぜ?

源頼朝は父・義朝が平治の乱で平家に敗れたのち伊豆国蛭ヶ小島に流されました。
伊豆で挙兵した源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由とは、はたして何だったのでしょうか?

源頼朝が鎌倉に鎌倉幕府を開いた理由とは?

1192(建久3)年、平家を打倒し征夷大将軍となった源頼朝は、鎌倉に幕府を開きました。日本では初となる武家政権の誕生です。そもそもなぜ、源頼朝は根拠地を鎌倉に定めたのでしょうか?

【源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由①】源氏の父祖ゆかりの土地

その理由のひとつに、鎌倉は父祖ゆかりの土地だった点が挙げられます。

源頼朝から5代前の源頼義(よりよし)は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(京都八幡市)を鎌倉の由比郷(鎌倉市材木座一丁目付近)に鶴岡若宮として勧請し、これがのちに鶴岡八幡宮となります。

また、源頼朝の父・義朝(よしとも)も、亀谷(かめがやつ)(寿福寺の付近)に居館を建て、関東での勢力拡大の拠点としました。

【源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由②】要害の地

第二の理由としては、鎌倉は要害の地であったことも大きいでしょう。

東西北の三方を山に囲まれ、南は相模湾を望む立地は、外敵の侵略を阻むのに適しています。陸路は切岸(きりぎし)(山裾を垂直に斬り落とした場所)や切通(きりどおし)(峠の難所などを掘削した隘路(あいろ))になっていて移動の制限や監視がしやすく、鎌倉へと通じる道は 「鎌倉七口(かまくらななくち)」として有名です。まさに武家政権の根拠地にとって最適なロケーションといえるでしょう。

【源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由③】交通の要衝

そして第三の要因として、鎌倉が交通の要衝であったことも忘れてはなりません。

この時代、 日本の中心地(京)から東国へ向かう場合、鎌倉以東は横浜・東京方面には向かわず、三浦半島から船で東京湾を渡り、房総半島へ至るのが一般的なルートでした。鎌倉は東京湾の玄関口として、人や物の集積場所だったのです。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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