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公孫淵の反乱~遼東で独立を画策した公孫氏の末路~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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公孫淵の反乱~遼東で独立を画策した公孫氏の末路~

遼東で独立を画策した公孫氏の末路。

公孫淵が遼東に燕国を建国

公孫淵(こうそんえん)は魏の後背にあたる遼東(りょうとう)に割拠して、叔父の公孫恭(こうそんきょう)より遼東太守の地位を奪い、正式に魏の遼東太守に任じられていました。

しかし、公孫淵は孫権(そんけん)に従う動きを見せながら呉の使者を斬り、首を魏に送りつけて再び臣従。強硬策に転じた魏の攻撃を撃退すると、237年、公孫淵は魏に反旗を翻して燕王(えんおう)を名乗り、燕を建国します。

しかし度重なる裏切り行為が、自身の首をしめることになります。独立に怒った魏が司馬懿(しばい)率いる大軍を遼東へ派遣したのです。公孫淵は呉に援軍を依頼しますが、呉が応じるはずもありません。

公孫淵とはどんな武将?

叔父の公孫恭から遼東太守の地位を奪い、明帝よりこれを認められました。しかし、次第に独立の意志を明らかにして232年、呉に使者を派遣して帰属の旨を伝えました。これに孫権が応えると、一転して魏への服従姿勢をとりますが、逆に魏の侵攻を受けました。その後燕王を称しましたが、司馬懿によって滅ぼされています。

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