フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

古代の文化、歴史、地理に関するおすすめ記事

1〜20件を表示 / 全 223件

邪馬台国が存在した場所とは?論争が続く畿内説と九州説から新たな進展があった?!

女王卑弥呼が統治する邪馬台国はどこにあったのか――。 古代史最大の謎のひとつである邪馬台国の所在地については、畿内説と九州説を中心に論争がなされてきましたが、結論はいまだに出ていません。 しか...

大阪の古墳は百舌鳥・古市古墳群だけじゃない巨大前方後円墳に残る王権の足跡

規模では全国で1位の仁徳天皇陵古墳、2位の応神天皇陵古墳は、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)に属しています。そのほかにも両古墳群の範囲外にも大阪には、巨大古墳は存在しているのです。...

縄文時代はどんな時代だった?食べ物は?服装は?最盛期は人口26万人だったといわれる縄文時代の1万年間と縄文人の生活

およそ1万年続いたといわれる縄文時代。その間には急激な温暖化と寒冷化がありました。海面が上昇し豊かな食物が採れた縄文時代中期には、縄文人はおよそ26万人にも急増したようです。縄文土器のほかにも、興味深...

縄文時代の食べ物にも旬や家庭の味があった!縄文時代の食べ物が日本食の源流?

縄文時代の食べ物は、私たちが想像するより豊かでした。縄文土器の多様化によって、さまざまな調理法が工夫されていったのです。まさに地産地消で食べる当時の食卓をのぞいてみましょう。...

縄文時代の暮らしが見えてきた!縄文時代の暮らしの中心、家族・ペットについて

縄文時代、日の出とともに始まったであろう縄文人の暮らし。婚姻の形態が確立し、家族で暮らしていました。イヌとの絆も分かってきています。...

「縄文時代って何年前?」縄文の時代を年表をかんたん解説!縄文時代の日本を俯瞰する

およそ1万年続いたといわれる縄文時代。その間にあった急激な温暖化と寒冷化を、縄文人たちは乗り越えてきたのです。年表で時代ごとにまとめました。...

縄文時代の服装にはハレ着や多様なアクセサリーも!縄文人の加工技術が作り出す服装と装身具

麻の繊維で編んだ服をまとい、ハレ着も存在した縄文人たちの装い。布織技術を生み出したのは縄文人たちで、着る服を自分で作っていました。また、男女とも優れた意匠のアクセサリーを身に着けていたようです。...

縄文時代の道具、縄文土器・石器・骨角器。縄文人が作り出した道具がすごい!

縄文時代の道具といえば縄文土器が真っ先に思い浮かびますが、この時代の石器、骨角器も忘れてはいけません。縄文人は石材加工技術を進歩させ、ナイフや磨り石を開発することにより、石器や骨角器も飛躍的に発達して...

縄文人に迫る。縄文人のルーツや身体的特徴、話していた縄文語って?!

日本独自の縄文文化は、旧石器時代に複数回にわたり渡来した人々により生まれました。彼らはどこを回って渡来してきたか、顔つき、体格、どのようなコミュニケーションをとっていたのか。縄文人に迫ります。...

縄文人と弥生人を比較!縄文時代晩期の日本にやってきた弥生人を知る

大陸や朝鮮半島からやってきた渡来系の弥生人は、農耕と金属器を日本に伝えました。弥生人には、いろいろは系統を持つ弥生人がいました。 いわゆる〝濃い〟顔の縄文人に対して、弥生人は平坦な顔をしていたのはよ...

縄文土器で時代が分かる。変化する形、多様化する文様が伝えるものとは

縄文時代、炊き用の道具として登場した土器は、縄文人同士の交流のなかで多様化を遂げていきました。縄文土器の種類、地域性、作り方、なぜ縄目にこだわったのかを見ていきましょう。...

聖徳太子がしたこと~古代史の英雄・聖徳太子が中央集権化を目指し、さまざまな国政改革を行なう

聖徳太子(しょうとくたいし)は推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう)として辣腕(らつわん)を振るいます。冠位十二階と十七条憲法の制定が、その最大の功績です。聖徳太子は仏教の振興や歴史書の編纂にも尽力し...

大化の改新~天皇中心の中央集権体制を目指し、新政権がいよいよスタートを切る

中大兄皇子は即位せず、皇太子として新政権の実権を握ることになります。改新(かいしん)の 詔(みことのり)を政治改革の骨子として公地公民制への移行がなされ、さらに統一的税制が施行されます。...

弥生人の社会~ムラができ、クニがつくられ、首長が集落をまとめていた

水田稲作の拡大とともに、生活や社会が変化が訪れます。多くの人が集まり、「ムラ」ができました。ムラが集まると、「クニ」が形成され争いが頻発し、環濠(かんごう)集落という自衛集落がつくられることになりまし...

蘇我氏の専横政治~巨大化しすぎた蘇我氏の力。蝦夷・入鹿父子が政治を牛耳るが…

聖徳太子の死後、蘇我氏が著しく増長していきました。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子は皇位継承をめぐって対立する相手を次々に殺害していきます。蘇我氏の専横を誰も止めることができなかったのです。...

遣唐使の派遣~命の危険をおかして中国に渡った留学生たちが、唐で得たものとは?

遣唐使の派遣は630年から894年まで、約20回にわたり計画されました。遣唐使船での渡海は命がけ。唐だけでなく、渤海(ぼっかい)とも使節のやりとりをしていました。...

邪馬台国は女王卑弥呼が鬼道を用いて人々を治めた国

クニ同士の争いを収めるため、卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)の女王となりました。卑弥呼は巫女(みこ)のような存在で、鬼道(きどう)を用いて統治していきます。しかし卑弥呼亡き後しばらくすると、...

西都原古墳群とは?巨大古墳をはじめ数百基の古墳が密集

西都原台地(さいとばるだいち)には九州でも最大規模の古墳群があります。さまざまな種類の古墳が残されており、さらには宮内庁管理の陵墓参考地も存在しています。...

大友皇子は壬申の乱で敗れ伊賀を経て東国へ生きのびた?

伊勢・伊賀も巻き込んだ、古代最大の戦といわれる壬申の乱。敗死したとされる大友皇子の母は、伊賀国の出身でした。大友皇子のその後を考察します。...

奇獣デスモスチルスから思い描く太古の昔の岐阜の姿

岐阜県東濃地方には幅広い地層が分布しており、太古の地形や気候を教えてくれる化石が存在します。これらを読み解くと、昔の岐阜の姿が浮かび上がってきます。...