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【富山・黒部宇奈月キャニオンルート】一般開放が待ち遠しい!人生で一度は訪れたい究極の「インフラツーリズム」 昭文社 保志

花田欣也

更新日: 2024年8月28日

【富山・黒部宇奈月キャニオンルート】一般開放が待ち遠しい!人生で一度は訪れたい究極の「インフラツーリズム」

2024年6月末、ついに一般開放・旅行商品化!と待ちきれない勢いでこの記事を執筆した2023年11月であったが、2024年1月1日の能登半島地震で被害を受けた黒部峡谷鉄道の復旧が予想以上の時間がかかっていることから、一般開放は2025年以降に延期になることが発表された。

これまで全国幾多のトンネルを歩いてきた私にとって、永遠の憧れであり、そして極めて崇高な存在。それは、黒部峡谷鉄道のトロッコの終点・欅平駅の先にトンネルへと伸びている線路、そしてその先の長く特別な工事用のトンネル。そこには、先人たちの想像を絶する自然への挑戦の跡が刻まれている。

「黒部宇奈月キャニオンルート」は、黒部川第四発電所(黒四発電所)の建設などに伴い、日本電力(関西電力の前身)、関西電力により工事用に設けられたもので、これまで視察など一部を除いて公開はされていない。
そんな稀少極まりない「黒部宇奈月キャニオンルート」が一般開放・旅行商品化されることとなり、先だっての視察会でその魅力を体感できる機会に恵まれた。
貴重な「黒部宇奈月キャニオンルート」の内部を、ひと足先にご紹介しよう。

※写真撮影…花田欣也(文とも)、昭文社

黒部宇奈月キャニオンルートが建設されるまでの歴史

「黒部宇奈月キャニオンルート」は、欅平駅から黒部ダムまで、全長およそ20km、高低差約870mに及ぶダイナミックなルートで、その大部分がトンネルだ。黒部川第四発電所(黒四発電所)の建設などに伴い、日本電力(関西電力の前身)、関西電力により工事用に設けられたもので、これまで視察などを一部を除いて公開はされていない。それは無理もないことで、今もなお巨大な電源施設群を365日支えるために不可欠な現役の稼働ルートなのである。

その「黒部宇奈月キャニオンルート」が、2024年6月末に一般開放・旅行商品化される。私も審査員で関わった某誌の「死ぬまでに行きたいインフラランキング」では、公開前にもかかわらず全国トップにランクされた。

黒部宇奈月キャニオンルートはわが国最大の水力発電所建設のためにつくられた

なぜ、それほどまでに注目度が高いのか。
まず、このルートならではの特殊な、そして建設史上永遠に残るであろう壮絶な取り組みをお伝えしたい。

黒部峡谷の奥地は、人跡未踏の野生動物でさえ寄せつけない屈指の秘境で、とりわけ冬の黒部峡谷は当時の平均積雪が5m余り、雪崩の生じた箇所では40mを超える日本最大の豪雪地帯であった。一方で、年間を通じて降雨量が多く、勾配差が大きく瀑布の連続する黒部川は早くから水力発電に最も好適な地として注目されていた。

渓谷の高低差を利用して、上流にダムを設けて川沿いの中流に水力発電所を建設する計画が進められ、1917(大正6)年には電源開発に向けた初の調査が始まった。調査のために絶壁を削り、「水平歩道」、「日電歩道」と呼ばれる桟道がかけられたが、絶壁をくり抜いたように設けられた当時の道幅はわずか50cmほど。通路の下は100mにも及ぶ切り立った崖が深い渓谷へ続いており、まさしく命がけの作業が後の黒部川の水力発電の礎となり、我が国最初にして最大の電源開発事業がスタートした。

工事は、大量の工事用資材を運ぶためのトンネル掘削が主体となったが、トンネルの区間が2つの火山帯の下にあたるため、高温の温泉が湧出する地帯を貫く、世界のトンネル掘削の歴史においても極めて稀な工事であった。

黒部宇奈月キャニオンルート建設は土木史上に残る壮絶な難工事であった

1936(昭和11)年、時代は第二次世界大戦前で、軍需物資製造のための電源開発は国家の至上命令であり、黒部川第三発電所、及び現在このルートの中間付近にある仙人谷ダムの建設が始まった。

この建設における凄まじい労苦の数々は、吉村昭氏の長編小説「高熱隧道」に克明に描かれている。欅平から仙人谷までは急勾配なため、エレベーターとトンネルによる輸送が計画されたが、上部のトンネルの掘削が進むにつれ洞内の温度が上昇し続け、岩盤温度は160℃を超える想定以上の高熱地帯に到達する。
作業員に後ろの者が絶えず冷水をかけながら昼夜を問わず掘り続けたが、洞内に溜まった水が高温に達するなど作業員の生命を脅かす未経験の難工事となり、残念ながら工事中に尊い犠牲を伴う爆発事故も発生した。

常にそのようなリスクがあるため人夫の工賃は通常の4~5倍に上がっていたが、さらに追い打ちをかけるように、冬期に作業員用の宿舎が“泡(ホウ)雪崩”と呼ばれる峡谷の特異な自然現象により、4階建ての1階を残して吹き飛ばされる大事故も発生したが、艱難辛苦の末にトンネルは貫通した。この約900mの高熱隧道の区間の工事に1年4か月を要したとされるが、1940(昭和15)年に完成した黒部第三発電所の出力は当時日本最大のものであった。

「破砕帯」の難関を克服しトンネル開通により建設された「くろよん」

戦後、日本経済の復興が本格化し、電力需要の拡大を受けて、1956(昭和31)年、黒部川第四発電所及び黒部ダム(くろよん)の建設が始まった。
このトンネル工事においても、大量の土砂と地下水が噴き出す「破砕帯(はさいたい)」と呼ばれる地層に遭遇したが、有識者を交えた関係者の人智を結集し、7か月を要して「破砕帯」を突破。1963(昭和38)年、7年の歳月と延べ1,000万人と言われる人手をかけて、「くろよん」が完成した。

これらの工事は、人間の挑戦を拒む大自然の猛威に正対した世界の土木建設史上にも残る稀代の難工事であったが、ここ黒部の地で我が国で初めて水力を活用した大規模な発電が行われたことにより、その経験が後に全国で生かされ、現代に至るまで多くの人々の暮らしを支えることになった。そこには非常に大きな意義があり、その証しとなるトンネルや巨大な発電施設を実際に見ることは、インフラツーリズムの究極の形ではないだろうか。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】花田欣也

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トンネルツーリズムプランナー(トンネル探究家)、総務省 地域力創造アドバイザー、一般財団法人地域活性化センター フェロー。

大手旅行会社に長年勤務した経験を生かし、地域観光のアドバイザーを務める。ライフワークとして産業遺産・トンネルを歩き、全国規模で例のないトンネルツアーの講師も務める。「マツコの知らない世界」など等メディアにも数多く登場し、日本の貴重な土木産業遺産の魅力を発信。「トンネルツーリズム」を提唱し、地域活性化に繋げる講演や執筆も精力的に行っている。また、映画関連の書籍も執筆するなど、幅広いフィールドで活動している。近著に「鉄道廃線トンネルの世界~歩ける通れる110」、「是枝裕和とペ・ドウナの奇跡(ともに天夢人・刊)。

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