藤原頼通~半世紀も摂関の座を占めた男から始まる藤原氏の終焉
藤原頼通は、平安時代を謳歌した藤原道長の子。若くして摂政となった藤原頼通ですが、そのおよそ50年後、外戚の地位を失うと、藤原氏の地位は急速に低下していきます。宇多天皇以来170年ぶりの、藤原氏を外戚と...
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藤原頼通は、平安時代を謳歌した藤原道長の子。若くして摂政となった藤原頼通ですが、そのおよそ50年後、外戚の地位を失うと、藤原氏の地位は急速に低下していきます。宇多天皇以来170年ぶりの、藤原氏を外戚と...
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、藤原道長の父。藤原兼家は、権力の座をめぐって兄・兼通(かねみち)と激しく対立します。兄に疎まれていた藤原兼家は、関白の座から遠ざけられても権力奪取の機会を諦めてはいま...
藤原隆家は、藤原道長の甥。藤原隆家は兄・伊周と道長の関白の座をめぐる争いに敗れ、大宰府の地に赴くも、その20年後に歴史の舞台に再び登場します。異民族襲来という未曾有の危機を退けたのが、花山法皇狙撃事件...
藤原道長が望月の歌を詠んだ翌年、北九州沿岸を女真族の船団が襲撃し、多くの住民が捕虜となりました。地元の豪族らとともに防戦に努め、刀伊の撃退に成功したのは、失脚して左遷されていたあの人物でした。...
貴族の文化が栄えた平安時代の後宮。政権を手に入れるため、藤原氏たちは娘を競って帝(みかど)に入内(じゅだい)させますが、皇子が誕生しなければ家の将来はありません。 どうやったら、天皇の寵愛を受け...
平安時代の文化として一番にあげられるのが、国風文化です。 国風文化とは、従来の唐風(とうふう)(中国風)文化に代わる日本独自の和風文化のこと。 9世紀の遣唐使廃止をきっかけに変化したともいわれます...
平安時代を知るためのキーワードとして外せないのが、藤原氏です。 権力闘争を繰り返し、摂関政治を極めた藤原氏ですが、その始まりは飛鳥時代の教科書にも出てくる有名な人物だということをご存知でしょうか。ま...
藤原道長が生きたのは、摂関政治の最盛期。摂関家として藤原道長は、どのようにしてその頂点へ立つに至ったのでしょうか? 平安時代中期にかけて藤原氏は、他氏排斥に注力します。その後、藤原氏族内の権力を...
学者の家系に生まれた少女・紫式部は漢籍の知識豊かな女性へと成長し、和歌で愛を深めて結婚します。しかしその3年後、『源氏物語』を書き始めるきっかけとなった大きな出来事が、紫式部の人生を揺るがします。 ...
愛情と政治が密接に結びついた平安後期。その時代に生まれ後宮に出仕していた紫式部が書いた『源氏物語』。 紫式部が蓄積した経験が、一大小説へと昇華されていく背景とはどのようなものだったのでしょうか。三部...
源氏物語は、熾烈な権力闘争が行われていた平安時代に、後宮に仕えていた紫式部が書いた物語です。 光源氏の誕生から始まる源氏物語は、恋多き貴公子の一生を追うストーリー展開。 正妻を失った光源氏が強...
藤原彰子(ふじわらのしょうし)は一条天皇の中宮(后)。 『源氏物語』が成立した1000年頃、貴族文化が花開いた時代に生きた女性です。 平安貴族たちは優雅さの陰で、家の浮沈をかけた熾烈な権力闘争...
『源氏物語』を書いた紫式部と『枕草子』の清少納言。 平安時代の後宮で中宮(后)の教育係として、文化サロンの発信源になった二人の女房たち。 紫式部と清少納言の関係はどういうものだったでしょう。 ...
貴族が謳歌していた頃の平安時代、中宮彰子に仕え、後宮で華々しく生きた紫式部。 源氏物語と紫式部日記という、千年以上経った現在でも色あせることがない2つの作品を後世に残してこの世を去った紫式部の死因と...
藤原定子(ふじわらのていし)は、平安時代の摂関政治全盛期を現出した一条天皇の中宮(后)です。女流文化人が活躍した後宮の文化サロン「定子サロン」の中心人物は、どのような人生を送ったのでしょうか。 藤原...
平安時代中頃に起こった国風文化。中国と日本の文化が融合し『源氏物語』を生む土壌がつくられた国風文化とは、どのようなものだったのでしょうか。 服装や住居から文学へも影響をもたらした、国風文化を見ていき...
遷都、現代でいえば首都機能移転問題。今日も様々な角度から問われている難題のひとつです。古代には、天皇が変わる度に遷都が行われている時期がありました。また、当時の権力者の理想を追って断行した時代もありま...
平安時代中期、藤原純友(ふじわらのすみとも)が伊予国(いよのくに)で反乱を起こしました。朝廷から瀬戸内海の海賊を討伐する任を受けて伊予国に出向いた藤原純友に、何があったのでしょうか。...
日宋(にっそう)貿易で財を成し平清盛が太政大臣(だじょうだいじん)になるなど栄華を極めた平家一門でしたが、清盛の死後程なく滅亡しました。平家は、なぜ滅びなければならなかったのでしょうか。...
「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり」という冒頭文で知られる『土佐日記(とさにっき)』。著者の紀貫之(きのつらゆき)は、土佐国(とさのくに)で何をしていたのでしょうか?...