フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

紫式部~紫式部が『源氏物語』を執筆するに至った背景とその後の人生

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月17日

この記事をシェアしよう!

紫式部~紫式部が『源氏物語』を執筆するに至った背景とその後の人生

学者の家系に生まれた少女・紫式部は漢籍の知識豊かな女性へと成長し、和歌で愛を深めて結婚します。しかしその3年後、『源氏物語』を書き始めるきっかけとなった大きな出来事が、紫式部の人生を揺るがします。

その後、『源氏物語』で評判を得た紫式部は、後宮へと足を踏み入れることになります。宮中での様々な情景を物語と歌集にした才能豊かな紫式部。その言葉は今も色あせることがありません。さあ、紫式部の人生をのぞいてみましょう。

紫式部の少女時代

『源氏物語』の作者・紫式部は、970年代に、中流貴族・藤原為時(ためとき)の娘として生まれました。生誕地は不明ですが、京都市北区の大徳寺塔頭(だいとくじたっちゅう)の真珠庵(しんじゅあん)に紫式部産湯(うぶゆ)の井戸が伝わっています。

為時の家系は藤原北家(ほっけ)に連なり、歌人や漢学者を多く輩出した家系です。父方の曽祖父藤原兼輔(かねすけ)は、堤中納言(つつみちゅうなごん)の名で知られ、「三十六歌仙」にも数えられた著名な歌人。祖父や伯父も歌人で、藤原為時も『新古今和歌集』に和歌を収録される歌人にして著名な漢学者でした。

家柄は申し分ありませんが、祖父の雅正(まさただ)以降、受領(ずりょう)階級へと零落し、官職すら失っていました。そうした家系に生まれた紫式部は、母を早くに亡くしたことか、父親の影響を強く受けて成長します。父に手ほどきを受ける弟・藤原惟規(のぶのり)より早く漢文を理解し、父から「男だったらよかったのに」と嘆かれた逸話が有名です。
この漢文の知識はのちに藤原彰子に『白氏文集(はくしぶんしゅう)』の進講を行なうなど、生かされていきます。

紫式部は父・藤原為時に同行して越前へ

こうして学識豊かな女性に育った紫式部は、長徳(ちょうとく)2年(996)、越前守(えちぜんのかみ)になった父の赴任に同行しています。この視野を広げた初の長旅も含め、半生での様々な経験や出来事は、『源氏物語』に登場するエピソードの源泉となるなど、創作にも生かされたことでしょう。紫式部の越前への旅路の途中に立ち寄った場所や紫式部が由来なっているエリアは今も残っています。

逢坂の関・・・京と東国をつなぐ出入口。『源氏物語』にも登場します。
塩津・・・京と北陸を海路と陸路で結ぶ地として、賑わっていました。
武生・・・紫式部公園や紫式部像など、紫式部にまつわる名所が存在しています。

1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ