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岩手【平泉】今さら聞けない歴史! 押さえておこう!

シュープレス

更新日: 2024年2月7日

岩手【平泉】今さら聞けない歴史! 押さえておこう!

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【岩手・平泉×歴史】平泉の物語

都を遠く離れたみちのく。平安時代、平泉は金や名馬を産出する豊かな土地柄だった。しかし、その富をめぐって常に激しい争乱が絶えず、多くの命が無残に失われていた。前九年、後三年合戦で、父や妻子を失う凄惨な体験を持つ藤原清衡は、平泉を「争いのない現世浄土の地」とすることを強く願い、その実現に力を注ぐ。志を受け継いだ二代・基衡、三代・秀衡により、平泉は京をもしのぐ、仏教文化を中心とする壮麗な都を創り上げた。その勢力は、こうして世界に例を見ない浄土思想による平和で豊かなこの世の理想郷が花開く。しかし、その繁栄と勢力の拡大を恐れた源頼朝は四代・泰衡に圧力をかけて、源義経の首を差し出させたうえ、義経をかくまったことを理由に平泉を攻め、滅亡させる。こうしてみちのくに忽然と現れた100年間の栄耀栄華は、夢幻となって消え失せてしまう。

【岩手・平泉×歴史】奥州藤原氏

みちのくに極楽浄土を実現した一族
12世紀のみちのくに、絢爛たる浄土文化を花開かせた一族。初代・清衡は悲惨な戦乱の体験から、この世に仏教思想をもとにした平和な国を実現しようと中尊寺を建立した。その志を受け継いだ二代・基衡、三代・秀衡の治世には、金や名馬の産地であることを背景に、豊かで華やかな黄金時代が続く。しかし四代・泰衡が跡を継ぐとすぐに頼朝の奥州合戦によって滅ぼされ、その栄耀栄華の時代は終焉を迎える。

藤原秀衡と源義経の関係は?
京から逃れてきた義経を迎え入れた藤原秀衡は、義経をわが子のようにかわいがったとも伝わる。秀衡の時代が奥州藤原氏の絶頂期。秀衡は頼朝による義経の引き渡し要求に一切応じない“北の王者”だった。

義経と弁慶について
京の五条大橋での出会いから、平泉における壮絶な最期まで、義経と弁慶は固い主従関係で結ばれていた。無数の槍を受けながら仁王立ちで義経を守った弁慶の最期が語り継がれている。

【初代】藤原清衡(ふじわらのきよひら)

【1056~1128年】
浄土世界の実現をめざす
前九年、後三年合戦の凄惨な戦乱を経て、この世に平和な浄土を実現しようと志す。

【二代】藤原基衡(ふじわらのもとひら)

【1105~1157年】
初代の志を忠実に引き継ぐ
毛越寺の造営や大規模な道路建設などで、仏教を中心とした街づくりを推進した。

【三代】藤原秀衡(ふじわらのひでひら)

【1122~1187年】
黄金文化の絶頂期を生きる
京の平等院鳳凰堂を模した無量光院を建立。陸奥の守に任じられ強大な勢力を誇る。

【四代】藤原泰衡(ふじわらのやすひら)

【1155~1189年】
栄華の終焉を見る悲運の主君
源頼朝に翻弄され、心ならずも義経を自害に追い込み、自らも滅ぼされた悲運の四代目。

【岩手・平泉×歴史】浄土思想

争いのない理想の世界を実現する
浄土とは、死後に行く仏の世界のこと。そこには苦しみも争いもなく、成仏した人はいつまでも安らかに過ごせると信じられていた。とくに戦乱や災害が絶えなかった10~12世紀には、現世よりも死後の平安を望む浄土思想が人々に広く受け入れられていた。奥州藤原氏の浄土思想は、死後の世界ではなくこの世に浄土をつくり出そうと都市計画に反映させ実現をめざしたところが特徴的。その平和思想は世界遺産として高い評価を受けている。

【岩手・平泉×歴史】浄土思想

毛越寺大泉が池のほとりに広がる庭園はこの世の浄土を象徴する景観

【岩手・平泉×歴史】黄金文化

豊富な金がこの世の浄土を具現した
平泉の繁栄を支えたのは、周辺で豊富に産出される金の存在だった。交易によって得られる富を背景に、京をしのぐとまでいわれた独自の仏教美術を創造していく。中尊寺の金色堂はその象徴だ。その噂は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって黄金に輝く都市・ジパングの伝説として世界に広まった。戦乱のない世界を築こうとする藤原氏にとって、黄金は平和を念願し美を尊ぶ文化にこそ惜しげなく使われるべきものだった。

【岩手・平泉×歴史】なるほど真実!?

当時の平泉は京都に匹敵する都だった!

12世紀の平泉は京に次ぐ国内第2の大都市だった。一説には10~15万人の人口があったとも。産金による潤沢な財力で造られた中尊寺や毛越寺をはじめとする絢爛豪華な寺院建築群は、京の都をしのぐ繁栄ぶりをみせていた。

自害した義経はチンギス・ハン?

泰衡に攻められ髙館で自害した義経には、ひそかに蝦夷地まで落ち延び、大陸へ渡ってチンギス・ハンになったという伝説が残る。悲劇の武将、義経の生涯を悼む多くの人によって今も語り継がれる壮大な英雄不死伝説だ。

江戸時代にはすでに有名景勝地だった

奥州藤原氏滅亡からちょうど500年後の元禄2(1689)年。『おくのほそ道』の旅で平泉を訪れた松尾芭蕉は高館に立ち、「夏草や~」の句を詠んだ。名刹が点在する平泉は、江戸時代にはすでに景勝の地として有名だった。

夏草や 兵どもが 夢の跡
五月雨の 降り残してや 光堂

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【筆者】シュープレス

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