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地名の由来:仙台藩白石城ゆかりの白石区(北海道)

戊辰戦争を主導した仙台藩の家臣は切腹や領地没収の沙汰を受け、残った家臣団は帰農して生き残りを図りました。館主や執政だった有力家臣の一部は北海道へと移住しました。

1871(明治4)年には戦国時代から続く伊達家の重臣・片倉家(仙台藩の白石城主)が、家臣とその家族など600余人とともに石狩郡札幌に移住。まもなく、その働きぶりを新政府から認められ、その地は、白石村と名付けられました。現在の札幌市白石区で、区名の由来にもなっています。

地名の由来:イーハトーブの風景地 イギリス海岸(岩手県)

花巻市小舟戸(こぶなと)にある北上川西岸の「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名づけました。この辺りは、水位が低くなると川底に白い泥岩層が現れます。この地層は、第四紀更新世(約258万~1万年前)のものと考えられています。この様子を白亜紀のチョーク層の露出しているイギリスの海岸から連想したのです。

川でありながら「海岸」と呼んだ理由は、景観が似ていたからだけではありません。川底の泥岩層(でいがんそう)の地層は、北上山地から中央分水嶺(奥羽山脈)まで一枚の板のように広がっていること、静かな水の中で堆積した地層であること、汽水域の生物化石が産出されることから、はるか昔にこの場所が海だったと考えられるからです。

ここでは、ゾウや偶蹄類(ぐうているい)(ウシなど)の足跡や貝殻など、たくさんの化石が発見されています。宮沢賢治はここで約140万年前の新種のクルミ(バタグルミ)の化石を採取しています。

ちなみに「イーハトーブ」とは、宮沢賢治による造語で実際の風景から宮沢賢治が考えたドリームランドとしての岩手県です。

イギリス海岸

住所
岩手県花巻市上小舟渡
交通
JR東北本線花巻駅から岩手県交通大迫バスターミナル行きバスで6分、イギリス海岸下車、徒歩5分
料金
情報なし

地名の由来:杜の都の森って??(宮城県)

仙台には「杜の都」という呼び名があります。この異名の歴史は意外と古く、初出は明治時代まで遡ります。明治時代に発行された観光案内書で、すでに仙台は「森の都」と紹介されているのです。

「杜の都」とは、文字通り木々の生い茂る緑豊かな都市という意味です。実際に、定禅寺通をはじめとして、仙台の大通りには美しく立派なケヤキ並木が続き、森のような景観をなしています。通りを少し散策するだけで、仙台が「杜の都」だということはごく自然に納得できるでしょう。しかし、実は大通り沿いにケヤキが植えられたのは戦後になってからのこと。「杜の都」の由来は、この並木道ではないのです。仙台藩の特徴的な人口比にそのヒントがあります。

武士の人口が特に多かった仙台藩では、自給自足のために屋敷の庭への植樹を奨励しました。武家屋敷は、下級武士でも1000㎡ほどの広さがありました。ここに、カキやクリなどの実がなる木や、建材として使えるスギやマツを植えさせたのです。落ち葉や枯れ枝も、燃料や肥料として余すところなく活用されました。この屋敷林こそが、時代を経て生長し「森の都」の「森」の由来となったのです。

地名の由来:金の産地を表す地名(茨城県)

久慈川中流域には、西金、盛金、金砂郷といった「金」がつく地名がありますが、これはエリアがかつて金の産地だったことに起因しています。八溝山地を構成する岩石には、しばしば石英でできた白い筋(石英脈)が見られ、ここに少量の金が含まれることがありそれを鉱山で採掘していました。近年まで観光金山(栃原金山)がありましたが、これもすでに操業を停止し金山は姿を消しています。

地名の由来:なぜ「那須」がつく市や町が多い?(栃木県)

現在、栃木県内には、那須町(なすまち)、那須塩原(なすしおばら)市、那須烏山(なすからすやま)市と、「那須」という呼び名がつく市や町が3つもあります。これは、これらの地域が下野(しもつけ)9郡のひとつである、那須郡であったからです。下野9郡とは、古代の律令制に基づく栃木県の旧国名である下野国を構成する9つの郡のことで、足利(あしかが)郡、梁田(やなだ)郡、安蘇(あそ)郡、都賀(つが)郡、寒川(さむかわ)郡、河内(かわち)郡、芳賀(はが)郡、塩谷(しおや)郡、そして那須郡で構成されていました。

さらにこの那須郡は、律令制度が整えられる以前は那須国(なすのくに)として、下毛野国(しもつけぬくに)(のちに下野国)とは別の国として統治されていたことが、近世になって知られるようになりました。その証拠となったのが、現在の大田原(おおたわら)市湯津上(ゆずかみ)の笠石神社にある、国宝・那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)です。

地名の由来:くるま→ぐんま(群馬県)

もともと群馬という名前は「車」からきているといいます。読み方も「ぐんま」ではなく、「くるま」と読んでおり、「久留末」という漢字が使われた時代もありました。

時を遡ること約1300年前。藤原京時代の資料によると、現在の群馬県となった場所は「上毛野国(かみつけのくに)」と呼ばれており、そのなかに「車評(くるまのこおり)」という評(後の郡のこと)がありました。これは古墳時代からこの地域を治めていた豪族「車持(くるまもち)氏」に由来するといいます。

その後、奈良時代初めの和銅6(713)年、朝廷より「国・郡・郷などの地名は、その土地に合った漢字2文字で表すこと」との命令が下されました。そこで国名の「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(かみつけのくに)」(鎌倉時代以降「こうずけのくに」と読むようになります)に、郡名の「車郡(くるまのこおり)」は、読み方はそのままで漢字2文字の「群馬郡(くるまのこおり)」と改名されたのです。

地名の由来:群馬が徳川氏発祥の地?!(群馬県)

江戸幕府を開いた徳川家康。実は群馬には徳川氏の始祖の地があったり、家康が眠る日光東照宮の奥社が移築されていたりと、徳川家と深い関わりがありました。

天下の大将軍・徳川家康といえば、愛知県の三河国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は群馬県太田市内の世良田町(せらだちょう)や徳川町(とくがわちょう)が徳川氏発祥の地といわれています。

地名にも残るように、かつて徳川町周辺は「徳川郷」と呼ばれており、徳川氏発祥の地として近世では特別な待遇を受けていました。家康自身も「わが遠祖は、上野国新田の一族徳川氏である」と、徳川郷を祖先の地と公言しています。家康は、徳川氏の祖は上野国新田郡一円(現・太田市の西部)を支配していた、清和源氏の流れを組む新田氏であると主張し、征夷大将軍になったのです。

その所縁について詳しくみていくと徳川埋蔵金伝説にもつながっていきます。

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