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更新日: 2024年1月14日
藤原清衡が初代となった奥州藤原家!藤原家三代・秀衡の陸奥守就任で宮城も統治下に
前九年合戦、後三年合戦ののち、藤原清衡(ふじわらのきよひら)が東北の地を治めることになりました。
奥州藤原家は約百年続きますが、源頼朝によって滅ぼされてしまいます。
奥州藤原家が台頭する以前に東北で勢力を拡大していた安倍氏
11世紀初め、安倍氏は岩手県で勢力を拡大し、安倍頼時(あべのよりとき)が奥六郡(県央から県南部にかけて)の郡司を務めていました。朝廷は、その勢力に恐れを抱き、源頼義(みなもとのよりよし)を鎮守府将軍兼陸奥守に任じて対抗しようとしました。しかし、安倍氏は反発し、安倍頼時・貞任(さだとう)父子が頼義軍を相手に戦を起こします。前九年合戦(1051~1062年)の始まりです。
強敵であった安倍氏を破るために、源頼義は秋田の有力な豪族であった清原武則(きよはらのたけのり)を味方につけて戦に臨んだのです。
藤原清衡が誕生するも父、清衛が斬首される
一方、安倍氏に味方した藤原経清(ふじわらのつねきよ)は、もともと京の藤原家の流れにつながる人で、陸奥国府の官僚として赴任してきた人といわれます。妻は安倍頼時の娘で、経清との間に清衡をもうけました。
戦いは12年の長きにわたりましたが、ついに安倍氏は敗れ、藤原経清も斬首されました。残された妻は清原氏の嫡男と再婚し、子をなしたといわれます。複雑な血縁関係が、再び戦を呼び寄せることになるのです。
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