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二位の尼、平時子は壇ノ浦の戦い当日どのように行動したか~「安徳天皇は生きていた」という遺書の内容とは?!~ 画像:PIXTA

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2023年1月13日

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二位の尼、平時子は壇ノ浦の戦い当日どのように行動したか~「安徳天皇は生きていた」という遺書の内容とは?!~

江戸末期の文化14年(1817年)、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の民家の屋根裏から発見された古文書は、平安の貴族藤原経房が息子にあてた遺書でした。そこには壇ノ浦から安徳天皇を守って山里能勢まで逃れてきたこと、そして天皇はこの地で亡くなられたことが書いてありました。
壇ノ浦の戦いで入水して亡くなった唯一の女性で安徳天皇の祖母である二位の尼、平時子。壇ノ浦の戦い当日の行動が、藤原経房の遺書に克明に記されています。

この記事は、著者能勢初枝が平成23年に書籍として出版した『ある遺書-北摂能勢の安徳天皇伝承』から一部を抜粋したものです。※現在当該書籍は絶版となっています。

二位の尼、平時子の壇ノ浦の戦い朝の心中

藤原経房の遺書の一部を現代語の訳文で抜粋します。基本的には仮名遣いも現代語とし、当用漢字を用いています。 また、 読みやすくするために、原文にはない句読点、改行 濁点、ルビなどをつけ加えました。読み取れなかったとされている箇所は[ ]で示し、推測して文字を入れています。
遺書の内容のあとに解説めいたものを加えています。

藤原経房の遺書の内容「壇ノ浦の戦いの朝のこと」

壽永4(1185)年乙巳(きのとみ)3月24日の日であったが、二位殿(にいどの:平清盛の妻)はひそかに、典侍(すけ)、大納言局佐(だいなごんのつぼねのすけ)、匂当内侍(こうとうのないし)、阿波内侍(あわのないし)、右少将基道(うしょうしょうもとみち)、わたくし経房(つねふさ)、大輔判官種長(たゆうはんがんたねなが)、郡司景家(ぐんじかげいえ)をおよびになって、「わが平家の運命も今日までとなった。だが武運が尽きたからといって、主上(しゅじょう:安徳天皇)と門院(もんいん:建礼門院)の命まで同じように尽きさせるのは、大変おそろしい。どの海辺にも、またどこの山奥にも逃れる場所はなくなったが、(それでもなんとか逃れてほしい)。逃げおおせた後で、生きていく助けにしなさい」と、砂金をかなりたくさん取り出された。

そしておっしゃるには、「もし仮に源氏が主上をお捕らえ申したなら、主上はどのような目におあいになるか分らない。おそらく平家一族の人間は、捕われたならば命があるとは思えないので、みんな平家の血筋ではない者ばかりお供させることになるが、主上と女院とに分けてお供を申しつけよう。この者たちは、火の中、水の中までお供してくれるだろうと思って、このようにおはかり申した。しっかりとした気持を持ってお供するように」と、ていねいにおっしゃるけれど、みんな涙ばかり落ちて、気持が乱れて急にはお答もできない。

平時子は愛孫と娘を助けたかった-藤原経房の遺書の内容:解説

平清盛の妻、平時子にとって、なにより大切なものは、三種の神器などではなく、血のつながった娘徳子であり、その徳子が産んだ安徳天皇でありました。清盛が、平徳子の懐妊を喜び、なんとか男子を産んで欲しいと願ったのは、男子なら天皇の位を継ぐことになり、自らの権勢を確固たるものに出来るという野心が中心でしょうが、女性である時子の思いは少し違っていたでしょう。

彼女の息子、重衡(しげひら)が源氏に捕われた時、三種の神器と引き換えに重衡の命を助けてやろうという使いが源氏方からもたらされました。平時子一人が息子の命を助けるために、神器を渡すことを主張しました。むろんその主張は、宗盛(むねもり)、知盛(とももり)など他の息子たちには受け入れられず、重衡はその後処刑されてしまいます。おそらく神器を渡したとしても、知盛などの判断通り、殺されたことに変わりはなかったでしょうか。
実際に平時子が、そう主張したかどうかは分らないにしても、当時の人々や物語の作者たちの目に、平時子はそういう女性として映っていたということでしょう。お祖母さんにとって、娘が生んだ孫が可愛いということは、よく言われることですが、まして生れてからずっと自分の手で育てた孫言仁親王(ときひとしんのう:安徳天皇)です、命に代えても守りたいと思うのは、自然な気持でしょう。

二位の尼、平時子の壇の浦での行動を『平家物語』から読み解く

壇ノ浦の戦い直前の御座船の中で何が話されたかについて、次のような箇所が『平家物語』〈灌頂の巻〉にあります。

「戦いは今日でおしまいだとおもわれたとき、二位の尼(平時子)が申し残すことがあると言って、『男が生き残ることは万が一にもないだろう、もちろん平家の血筋に遠い人々は自然に生き残るだろうが、その人たちが平家の菩提を弔うということは難しい。昔からどのようないくさでも女は殺さないのが、この国の習いなので、なんとか生き残って、主上の菩提を弔い、また平家一門の後世をも祈ってほしい』と平徳子にくどくどと言った」。

これは、大原に訪ねて来た後白河法王に建礼門院徳子が語った言葉として載っています。これと藤原経房の遺書の二位の尼(平時子)の言葉は同じです。

「さても門司・赤間の関にて、いくさはけふを限りと見えしかば。二位の尼申をくことさぶらひき『男のいき残む事は千万が一もありがたし。設又遠きゆかりはをのづからいきのこりたりといふとも、我等が後世をとぶらはむ事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて主上の後世をもとぶらひまいらせ、我等が後世をもたすけ給へ』とかきくどき申さぶらひしが、…」(『平家物語』より)

これは、『平家物語』では、〈潅頂の巻〉にだけ見える言葉です。「いかにしてもながらへて」ほしいと「かきくどい」たとあります。「かきくどく」は、「くどくど言う」より強く、涙を流さんばかりに、あるいは流しながら、心情を吐露したということです。
〈潅頂の巻〉が他の十二巻とは、おもむきを異にしていることは明らかですが、この二位の尼(平時子)の言葉は藤原経房の遺書のキーワードの一つだと考えます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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