フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー >  九州・沖縄 > 長崎県 >

大村純忠による苦肉の策!?なぜ長崎はイエズス会領になったのか? 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

この記事をシェアしよう!

大村純忠による苦肉の策!?なぜ長崎はイエズス会領になったのか?

小さな漁村でしたが、ポルトガル船寄港地になり栄えた長崎。
一時期イエズス会領になった歴史の裏には、弱小戦国大名として生き残りをかけた大村純忠(すみただ)の策がありました。

「宮ノ前事件」の発生でポルトガル船の入港が平戸から横瀬浦へ

長崎が寄港地になる以前、ポルトガル船はもともと平戸に入港していました。しかし平戸領主の松浦氏は、貿易は歓迎する一方で、キリスト教布教に反対しました。

永禄 4(1561)年、ポルトガル商人と平戸商人の間で生糸の取引を巡る口論が殺傷事件に発展。松浦氏の家臣も加わり、ポルトガル船長を含む14人が殺害される「宮ノ前事件」が発生します。松浦氏との関係が悪化したポルトガル船は、平戸に代わる港を探し始めました。

大村純忠の思惑とイエズス会の横瀬浦開港

そこでイエズス会は大村領の横瀬浦を密かに測量し、貿易港に適していることを発見。イエズス会は領主の大村純忠に接近して、開港と同時に布教の許しも得ます

大村純忠は島原の大名・有馬晴純の次男でしたが、大村氏に養子に出され家督を継いだため、権力基盤が弱く、周辺と対立が続いて脅威にさらされていました。大村純忠はポルトガル船を招致することで、貿易利益を得て経済基盤を強化し、政治権力の安定化を図る狙いがあったのです。

1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  九州・沖縄 > 長崎県 >

この記事に関連するタグ