大阪の古墳は百舌鳥・古市古墳群だけじゃない巨大前方後円墳に残る王権の足跡
規模では全国で1位の仁徳天皇陵古墳、2位の応神天皇陵古墳は、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)に属しています。そのほかにも両古墳群の範囲外にも大阪には、巨大古墳は存在しているのです。...
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規模では全国で1位の仁徳天皇陵古墳、2位の応神天皇陵古墳は、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)に属しています。そのほかにも両古墳群の範囲外にも大阪には、巨大古墳は存在しているのです。...
およそ1万年続いたといわれる縄文時代。その間には急激な温暖化と寒冷化がありました。海面が上昇し豊かな食物が採れた縄文時代中期には、縄文人はおよそ26万人にも急増したようです。縄文土器のほかにも、興味深...
縄文時代の食べ物は、私たちが想像するより豊かでした。縄文土器の多様化によって、さまざまな調理法が工夫されていったのです。まさに地産地消で食べる当時の食卓をのぞいてみましょう。...
縄文時代、日の出とともに始まったであろう縄文人の暮らし。婚姻の形態が確立し、家族で暮らしていました。イヌとの絆も分かってきています。...
およそ1万年続いたといわれる縄文時代。その間にあった急激な温暖化と寒冷化を、縄文人たちは乗り越えてきたのです。年表で時代ごとにまとめました。...
麻の繊維で編んだ服をまとい、ハレ着も存在した縄文人たちの装い。布織技術を生み出したのは縄文人たちで、着る服を自分で作っていました。また、男女とも優れた意匠のアクセサリーを身に着けていたようです。...
縄文時代の道具といえば縄文土器が真っ先に思い浮かびますが、この時代の石器、骨角器も忘れてはいけません。縄文人は石材加工技術を進歩させ、ナイフや磨り石を開発することにより、石器や骨角器も飛躍的に発達して...
日本独自の縄文文化は、旧石器時代に複数回にわたり渡来した人々により生まれました。彼らはどこを回って渡来してきたか、顔つき、体格、どのようなコミュニケーションをとっていたのか。縄文人に迫ります。...
大陸や朝鮮半島からやってきた渡来系の弥生人は、農耕と金属器を日本に伝えました。弥生人には、いろいろは系統を持つ弥生人がいました。 いわゆる〝濃い〟顔の縄文人に対して、弥生人は平坦な顔をしていたのはよ...
縄文時代、炊き用の道具として登場した土器は、縄文人同士の交流のなかで多様化を遂げていきました。縄文土器の種類、地域性、作り方、なぜ縄目にこだわったのかを見ていきましょう。...
聖徳太子(しょうとくたいし)は推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう)として辣腕(らつわん)を振るいます。冠位十二階と十七条憲法の制定が、その最大の功績です。聖徳太子は仏教の振興や歴史書の編纂にも尽力し...
中大兄皇子は即位せず、皇太子として新政権の実権を握ることになります。改新(かいしん)の 詔(みことのり)を政治改革の骨子として公地公民制への移行がなされ、さらに統一的税制が施行されます。...
水田稲作の拡大とともに、生活や社会が変化が訪れます。多くの人が集まり、「ムラ」ができました。ムラが集まると、「クニ」が形成され争いが頻発し、環濠(かんごう)集落という自衛集落がつくられることになりまし...
聖徳太子の死後、蘇我氏が著しく増長していきました。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子は皇位継承をめぐって対立する相手を次々に殺害していきます。蘇我氏の専横を誰も止めることができなかったのです。...
遣唐使の派遣は630年から894年まで、約20回にわたり計画されました。遣唐使船での渡海は命がけ。唐だけでなく、渤海(ぼっかい)とも使節のやりとりをしていました。...
クニ同士の争いを収めるため、卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)の女王となりました。卑弥呼は巫女(みこ)のような存在で、鬼道(きどう)を用いて統治していきます。しかし卑弥呼亡き後しばらくすると、...
西都原台地(さいとばるだいち)には九州でも最大規模の古墳群があります。さまざまな種類の古墳が残されており、さらには宮内庁管理の陵墓参考地も存在しています。...
伊勢・伊賀も巻き込んだ、古代最大の戦といわれる壬申の乱。敗死したとされる大友皇子の母は、伊賀国の出身でした。大友皇子のその後を考察します。...
岐阜県東濃地方には幅広い地層が分布しており、太古の地形や気候を教えてくれる化石が存在します。これらを読み解くと、昔の岐阜の姿が浮かび上がってきます。...
滋賀県の旧国名「近江(おうみ)」は飛鳥時代から使われていました。その起源をひもとくと、琵琶湖の存在と都からの距離が深く関係していたようすがみえてきます。...