京都の神社仏閣をチェック!いちばん行きたいのはどこ?
京都の旅ならやっぱり神社仏閣を巡りたいもの。「清水寺」や「金閣寺」、「伏見稲荷大社」などの超有名社寺や、恋愛成就にご利益のある神社、庭園が素晴らしかったり、歴史上の人物にゆかりの寺など、京都の神社仏閣...
2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で注目された明智光秀。
歴史上、「本能寺の変」という謀反を起こした人物として語り継がれてきました。その悪いイメージは、近年大きく変わりつつあります。光秀の生き方が、戦国の世には珍しいほど誠実で、家族や家臣思いであったことが明らかになってきたのです。
本当の光秀はいったいどんな人物だったのか。
今回は、その戦いの歴史と、築いた城を基軸に、改めてその激動の生涯を追ってみましょう。京都の歴史探訪のプロフェッショナル、らくたび代表・山村が解説します!
明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家で、光秀は斎藤道三に仕えましたが、道三がその子・義龍に敗れると美濃を追われ、越前の朝倉氏を頼ったといいます。しかし幸運にもその地に京都から次期将軍候補であった足利義昭が身を寄せてきたことで、知己を得て、伸張著しい織田信長に義昭を引き合わせ、信長にも気に入られて重臣として出世をしていくこととなりました。
教養人であり交渉力にたけた光秀は、主に朝廷工作を担当。軍事にも秀でた力を発揮し、信長家臣団の中では最初に坂本の地に城を与えられました。その光秀の軍事面でのハイライトが「丹波攻め」といえるでしょう。
丹波国は都がある山城国に接して、山陰道も通じる交通の拠点でしたが、小さな平地が多く存在し、それらを地元の国衆が複雑に支配するという大変攻めにくい地域でした。さらに長年足利氏の支配地でもあったことから、義昭を追放した織田信長に対しては快く思っていない領主も多かったのです。
そんな中でも光秀は、周囲の勢力を巧みに味方につけながら、「丹波の赤鬼」と呼ばれる赤井直正が籠る黒井城まで進軍しましたが、丹波の有力武将であった波多野氏の裏切りによって敗戦、撤退という形になったため、丹波攻めは作戦変更を余儀なくされました。
光秀は休む間もなく石山本願寺攻めに駆り出され、その後も紀州や大和攻めに従軍することで、ついに病に臥せってしまいます。妻煕子の看病もあって、なんとか回復した光秀は、二回目の丹波攻めを敢行しました。
前回のように一気に黒井城まで攻めず、丹波攻略の拠点として亀山城を築城し、周辺の城を各個撃破し、裏切った波多野氏が籠る八上城は厳重な包囲のもと兵糧攻めで落城させています。さらに最後に赤井直正を病気で失った黒井城も陥落させて丹波平定を成し遂げ、続いて細川藤孝とも協力して丹後平定も行いました。
天正8(1580)年には丹波一国(約29万石)を加増されて、合計34万石を領する大大名へ成長します。亀山城や周山城を築城し、横山城を修築して「福知山城」に改名し、攻め取った黒井城もさらに頑強に増築して家老の斎藤利三を入れ、福知山城には明智秀満を入れて統治体制を整えました。
光秀が丹波平定を終えてから本能寺の変まではわずか2年半。統治期間は短いものの、丁寧に検地を行い、年貢を低く抑え、治水工事など環境整備も積極的に行ったことから、亀岡や福知山では長く名君と仰がれ続けてきました。
光秀が丹波攻めを終えた頃、織田信長は懸案であった武田家を滅ぼすことに成功します。この時期の織田信長は、強敵の上杉謙信も亡くなったことで、天下統一に向けての視界が非常に良好になってきており、役に立たない家臣達の追放や、自らの神格化、身内の優遇など、のちに光秀を含む家臣団からすると憂慮すべき事案が顕在化していました。
しかし光秀への信長からの評価は揺るぐことはなく、さらに信長は天皇の前で軍事パレードの馬揃えを挙行した時も、総指揮を光秀に任せています。
しかし事態は急変します。天正10(1582)年5月7日、四国全土に支配の手を伸ばしつつあった長宗我部元親は、それまで光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていましたが、信長は元親の四国支配を認めるこれまで約束を撤回して四国征討を決定します。長宗我部家に対して仲介役を行っていた光秀の立場は厳しいものとなりました。
5月15日、徳川家康が安土城を訪れたため、事前に接待役を命じられていた光秀は、入念な準備をして3日間家康をもてなしました。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から援軍要請が入ったのです。信長は即座に光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備を命じました。
坂本城を出陣した光秀は、5月27日に毛利との戦勝祈願のため愛宕神社に参詣。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開き、発句をこう詠みました。
『時は今 雨が下(した)しる 五月哉』
“時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。
つまり「土岐氏(自分)が今こそ天下を取る五月なり」とも解釈できるのです。
天正10(1582)年5月29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、わずか180名しかいませんでした。
6月1日、信長は所有の名茶器を主な公家衆に披露し、深夜まで囲碁の対戦を楽しんだと伝わります。同夜10時頃、光秀は明智秀満ら重臣に信長を討つ決意を告げ、彼らは命運を共にすることを血判状で誓うと、軍勢を複数に分け、桂川を越えた明智軍1万3千は、6月2日の明け方に本能寺の包囲を終えました。
ただならぬ空気と鉄砲の音で部屋を出た信長は「これは謀反か!如何なる者の手ぞ!」と叫びます。駆け寄ってきた森蘭丸は「明智が勢と見えまする!」と告げると、信長は「光秀か!是非に及ばず」と一言発したといいます。女性たちに逃げるように言いつけた信長は、数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取りましたが、傷を受けて戦うのを止めると炎上する本能寺の奥の間に入って自刃しました。
午前7時、明智軍の別働隊が二条御新造を攻めて長男信忠も滅ぼしました。6月3日、遠方の有力武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としています。夜になって毛利軍の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、秀吉はいち早く「本能寺の変」知ることになりました。
翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利家と和睦。俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まったのです。
一方で5日に安土城に入った光秀は、信長がため込んでいた金銀財宝を家臣達に分け与え、7日に朝廷から祝儀を受けると8日に京へ移動します。6月9日、思いに反して援軍が現れず光秀は焦り始めます。その中でも最大の誤算は、細川父子の離反でした。旧知の細川藤孝とガラシャの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきたのです。家の存続を優先して光秀を裏切った自分のけじめとして、頭を剃って出家したというのです。忠興は妻であり光秀の娘のガラシャを辺境の地に幽閉しました。
10日、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も中立を守ったため、光秀は完全に孤立しました。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きます。12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、隘路を男山と挟んだ京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとしますが、既に秀吉方に占領されていました。
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