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尼子経久の戦略地図~上洛を見据えて石見銀山の確保を目指す

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月13日

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尼子経久の戦略地図~上洛を見据えて石見銀山の確保を目指す

主君京極氏を追放し、出雲守護代から出雲国主へ。尼子氏興亡の分水嶺となった吉田郡山合戦。

尼子経久の戦略地図~主君京極氏を追放し出雲守護代から出雲国主へ

出雲(いずも)守護代の尼子経久(あまごつねひさ)は、守護京極氏のもとで実力を蓄えていましたが、文明16年(1484)、これを警戒する京極政経(まさつね)から守護代の任を解かれ、居城月山富田城(がっさんとだじょう)を追われてしまいます。しかし、その2年後、新年の祝いを利用して富田城を奪還。京極氏をも出雲から駆逐し、出雲国主となりました。

その勢いのままに山陰を中心に勢力を拡大し、隠岐(おき)、因幡(いなば)、伯耆(ほうき)、石見(いわみ)を掌握。一時は安芸の毛利元就(もうりもとなり)も従えるなど、山口の大内氏と中国地方の覇権を争う勢力へと成長しました。

経久も、その跡を継いだ孫の晴久(はるひさ)も上洛を見据えて美作(みまさか)、備前(びぜん)にも攻め込み、中国地方東部に覇権を確立していきます

上洛を目指し、東中国を押さえた尼子氏

出雲守護の京極氏を追って国主となった尼子経久は、大内義興の上洛の隙を突いて勢力を拡大。山陰に大勢力を築き上げました。のちにその孫の晴久が、大内氏の旧領を手中に収めた毛利元就と中国地方の覇権を巡り争うこととります。

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