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広岡浅子(ひろおかあさこ)

明治時代から大正時代の実業家、教育者。山城国京都生まれ。数え年17歳の時に大坂の豪商である加島屋・広岡信五郎と結婚。独学で簿記や算術などを学ぶ。20歳の時、明治維新で傾いた加島屋を立て直すべく、奮闘。炭鉱事業に参画し、筑豊の潤野炭鉱を買収・開発。加島銀行を設立し、大同生命を創業するなど、明治時代を代表する女性実業家として手腕を発揮する。一方、“女子教育”にも力を入れ、日本女子大学校(現:日本女子大学)の創設を支援した。

出光佐三(いでみつさぞう)

明治時代から昭和時代の実業家。福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)生まれ。石油元売会社・出光興産の創業者。神戸高等商業学校(現:神戸大学)を卒業し、1911年に25歳で福岡県門司市(現:北九州市門司区)に出光商会を設立。南満州鉄道に車軸油を納入するなど、中国大陸に進出。1937年、多額納税者として貴族院議員に選任された。1940年に出光興産を設立。一代で大手石油会社に成長させた。

物部守屋(もののべのもりや)

飛鳥時代の有力豪族。572年、敏達天皇(びだつてんのう)の即位に伴い、天皇の補佐を行なう“大連(おおむらじ)”に任じられた。日本に伝来した仏教に対して、物部氏は強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立。そんな中、敏達天皇が崩御。大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)が推す用明天皇が即位したため、守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。587年、『丁未の乱(ていびのらん)』(物部守屋の変)が起こる。馬子と守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。

小野妹子(おののいもこ)

飛鳥時代の官人。遣隋使。607年、推古天皇の時代に聖徳太子が隋と国交する際、第1回遣隋使として国書を携えて、通訳の鞍作福利(くらつくりのふくり)らと共に渡海した。翌年、隋の使臣・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国したが、隋の皇帝・煬帝(ようだい)からの返書を紛失したと報告。しかし、推古天皇の恩赦で罪に問われなかった。同年、裴世清の帰国時に再び遣隋使として派遣され、8名の留学生・留学僧と共に国書を携えて渡海。翌年に帰国した。

蘇我馬子(そがのうまこ)

飛鳥時代の有力豪族。572年、敏達天皇(びだつてんのう)の即位時に、天皇の補佐を行なう“大臣(おおおみ)”となる。以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えた。対立関係にあった物部氏は、『丁未の乱(ていびのらん)』(物部守屋の変)で滅ぼすなど、50年以上にわたり権力を握った。また、推古天皇を即位させた際は、厩戸皇子(うまやどのおうじ[聖徳太子])を皇太子とし、摂政に。「冠位十二階」や「十七条憲法」を定め、中央集権化を進めた。

岡本春暉(おかもとしゅんき)

江戸時代末期から明治時代の浮世絵師。二代目保川春貞(にだいめやすかわはるさだ)。初代保川春貞、歌川国芳の門人。師匠・春貞の死後、二代目保川春貞を襲名した。その後、国芳に入門。1868年、「岡本春暉」と改号。高橋由一(たかはし ゆいち)に洋画を学んだ。美人画や風俗画を得意とし、晩年は肖像画を多く残した。

平将門(たいらのまさかど)

平安時代の豪族、武将。平高望(たいらのたかもち[高望王])の三男・平良将(たいらのよしまさ)の子。下総国、常陸国など、平氏一族の領地争いは関東全体に広がり、伯父の平国香(たいらのくにか)を殺害し、一族を掌握。当初は一族の内紛とみられていたが、朱雀天皇に対抗して“新皇”と自称したことで、朝敵とされる。しかし、わずか2か月足らずで藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛(たいらのただもり)らにより討伐された(「平将門の乱」)。

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