【函館・道南旅行】2泊3日で行きたい!おすすめ観光スポット!
見る・食べる・遊ぶ・温泉など、魅力的な観光スポットが、いくつかのコンパクトなエリアにまとまっている函館・道南エリア。 美しい風景や美味しい食べ物などをご紹介!...
更新日: 2018年8月5日
武蔵国(現在の東京都日野市)の裕福な農家の6人兄弟(10人兄弟とも)の末っ子として生まれる。端正な顔立ちに似合わず、乱暴な幼少期を過ごし、当時から「武士になりたい」と願っていたという。剣は試衛館という道場の代稽古を務めた腕前で、のちに相棒となる近藤勇とは、この道場で出会った。
新撰組は、文久2(1862)年に幕府が将軍護衛を名目に浪士を募集したのが始まり。その後、近藤勇とともに組織の実権を握った土方だが、慶応3(1867)年10月、第15代将軍・徳川慶喜が朝廷へ政権返上を申し入れて、江戸幕府の時代が終わった。しかしこれに納得しない新撰組を含む旧幕府派は、新政府に対して各地で抗戦。
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発するも、旧幕府派は敗北。土方はのちに、蝦夷地開拓を目指していた榎本武揚率いる旧幕府脱走軍と合流し、一路、蝦夷地へ向かう。 明治元(1868)年、蝦夷地に上陸した旧幕府脱走軍が真っ先に占拠したのが箱館の五稜郭だった。続いて松前城も攻略し、旧幕府脱走軍は蝦夷地平定を成し遂げたかにみえた。榎本は蝦夷地仮政権を樹立、士官以上の入札により、榎本は総裁となり、土方は陸軍奉行並となった。
土方を引き連れ蝦夷地に渡った榎本武揚
蝦夷地仮政権の拠点だった箱館奉行所
森町の駒ヶ岳を望む海岸に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が、初めて蝦夷地に上陸した
新政府による攻撃が始まったのは明治2(1869)年4月。五稜郭内の軍議で土方は徹底抗戦を主張。みずから切り込み隊長をかって出るが、この出陣で土方歳三はその生涯を終えることとなる。享年35歳。箱館山の裏側から奇襲攻撃をかけてきた新政府軍に対して、土方は旧幕府脱走軍を救援しようとするが果たせず、引き返す途中に砲火を浴びて倒れたという。最期の瞬間は、“馬に乗ったまま被弾した”“味方によって狙撃された”という説もあり、いまだ謎に包まれている。土方の死の6日後に旧幕府脱走軍は降伏。箱館戦争は終戦を迎えたのである。土方歳三最期の地は、諸説あるが一本木(現在の函館市若松町)あたりというのが有力。今も多くのファンによって花が手向けられている。
函館市若松町にあり、全国から多くのファンが花を手向ける
函館山山麓に立つ碑。旧幕府脱走軍の戦死者800人余りの霊が眠っており、土方の骨も埋葬されたといわれている
明治元(1868)年、箱館五稜郭を中心に新政府軍と旧幕府軍の間に勃発した争い。旧幕府軍が五稜郭を占拠したことをきっかけに、函館・道南各地へと争いは広がっていった。これに対し、新政府軍は反撃を開始、圧倒的な戦力差により旧幕府軍は降伏した。こうしてあしかけ2年にわたる新旧交代劇は幕を下ろした。
毎年5月の箱館五稜郭祭では維新行列が行なわれる
わが国最後の日本式城郭でもあり、北海道唯一の城。土方歳三が陥落させた箱館戦争激戦の地である
五稜郭の後方攻撃に備えて砦として造られた土塁跡。蝶が羽を広げたような形が特徴的である
戦時に榎本武揚や傷病兵が入湯したといわれる。湯の川の隣町「榎本町」は彼の名に由来するという
土方歳三が身につけていた頭巾など貴重な展示がなされている。土方の生涯を詳しく知ることができる
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