山口を歴史旅!幕末〜明治ゆかりの地をめぐる1泊2日モデルプラン
明治維新から150年以上が経過し、なお維新の立役者たちに注目が集まり続けている山口県。 偉人を多く輩出したこの地にはゆかりのスポットが数多く残り、 世界遺産に登録されたスポットもあり、 今もその...
更新日: 2024年2月11日
世界遺産・松下村塾をはじめとした萩の歴史スポットと偉人をご紹介。
奇兵隊を結成し倒幕に奔走した高杉晋作、攘夷派のリーダー的存在の久坂玄瑞、幕末の動乱を乗り越え初代内閣総理大臣となった伊藤博文など、多くの門下生が日本の近代化に重要な役割を果たしました。
日本の産業革命を担った人材を育成した点が評価され、2015年に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつとして世界遺産に登録されました。
偉人たちの足跡を、萩の地でたどってみましょう。
幕末史に名を連ねる志士が集った伝説の私塾
吉田松陰の叔父、玉木文之進が私塾を開いたのが始まりで、安政4(1857)年に吉田松陰が引き継いだ。高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の原動力となる多くの逸材を育てた、歴史的にも重要な場所でもあります。
建物は幕末当時に建てられたものが現存。移築などはしておらず当時から現在の位置にあり、明治23(1890)年に塾生らが塾舎の保存を提案、寄付金を募り補修を行いました。
多くの塾生がこの門を叩き、日本を変える人材へと育っていった。松陰は来る者拒まず去る者追わずであったといわれています。
最初は8畳1室であり、その翌年には塾生が増えたため10畳半の部屋を増築。最終的に塾舎は18畳ほどの広さとなりました。
塾には屋根裏部屋があり、松陰が休憩のために使ったり、書を読み心を鎮めた場所といわれています。
天保13 (1842年) 玉木文之進が自宅に松下村塾を創始
年嘉永2年 (1849年 )玉木文之進が松下村塾を廃止
安政3年 (1856年) 松陰が杉家の幽囚室で講義を開始 久坂玄瑞、吉田稔麿が入門
安政4年 (1857年) 高杉晋作が入門
安政5年(1858年) 12月、松陰が野山獄に投獄され一時閉鎖
慶応元年 (1865年) 一時再開。馬島甫仙、河井惣太などが講義にあたる
明治4年 (1871年) 玉木文之進が塾を再開
明治13年 (1880年) 松陰の兄・杉民治が引き継ぐ
明治25年頃 (1892年) 閉塾
天保13(1842)年、松陰の叔父である玉木文之進が開いたのが始まりで、幼い松陰も入塾した。真面目で厳格だった文之進にはこんなエピソードがあります。蚊にさされた顔を手で掻いた松陰に対し、「学問の途中に顔を掻くという私事を行うとは言語道断」と激昂、叱責しました。松陰はその後も度々叱られましたが、文之進はその都度手をあげた理由を事細かに説明していたのだとか。
松下村塾は師が一方的に講義をせず、門下生といっしょに意見を交わすなど各々のレベルに合わせた教育を行っていました。書物を通じて欧米諸国について勉強していた松陰は、日本を対等な独立国家にするためには工業学校を設置し、工業基盤を強化することが不可欠であると考えていました。その思いは十数年後、長州ファイブらによって実現されることとなります。
90名を超える塾生を抱えながら、松下村塾に月謝や入会金のようなものは存在しなかったといわれています。食事で講義を中断することを嫌った松陰は、塾生に食事を提供することもあったそうです。
これだけ有能な人材を育成した松陰だが、教鞭を執ったのはわずか2年10か月なのだ。安政5(1858)年、松陰が老中要撃計画を告白し牢に入れられたため塾は一時中断。その後は玉木文之進、杉民治(松陰の兄)など数人が引き継ぎ、明治25(1892)年頃に閉鎖となりました。
【明治維新の志士を育てた熱きリーダー】
松下塾の指導者 文政13~安政6(1839~59)年【享年30】
長州藩士の次男として生まれる。9歳より藩校明倫館で兵学師範見習いとして出仕。その後、日本各地での遊学を経て松下村塾を主宰する。安政5(1858)年の日米修好通商条約問題で幕府を批判して投獄され、翌年、安政の大獄で処刑されました。
【長州藩士・教育者】
神童とよばれた
わずか9歳で藩校明倫館教授見習いとなり、11歳で藩主毛利敬親に兵学の講義を披露。才ある少年の存在はたちまち城下に知れ渡りました。
ペリー艦隊に乗り込む
ペリーが座乗する黒船に乗り込み海外渡航を哀願するが失敗。世界を見たいという一心でとったこの行動にはペリーも感動したと伝わっています。
わずか30年の人生
老中要撃計画を自供したため処刑される。正々堂々と自らの思想を語ったところに松陰の人柄が見受けられます。
敷石と松陰産湯の井戸が残る誕生地。近くには松陰と門弟の金子重輔が下田沖の米艦を見つめる姿の銅像が立つ。隣接して松陰をはじめ高杉晋作、久坂玄瑞など維新で活躍した人々の墓が立っています。
維新の志士を多く育てた吉田松陰を祀る神社。境内には、2015年に世界遺産登録された「松下村塾」、「吉田松陰幽囚ノ旧宅」など、松陰ゆかりスポットのほか、歴史館や宝物殿などがあります。
松陰が処刑の直前に塾生たちにあてた遺書「留魂録」など遺墨を公開。松下村塾観席コーナーや見学無料ゾーン、ショップなどもあります。
吉田松陰の波乱万丈の人生を約70体のろう人形で紹介。井伊直弼による安政の大獄で30歳という若さで幕を閉じた生涯を20の場面で表現しています。
【新時代を築いた初代内閣総理大臣】
天保12~明治42(1841~1909)年【享年69】
長州藩の束荷村(現光市)で生まれ、萩に移住。17歳で松下村塾に学び、倒幕運動に参加。23歳の時にイギリスへ密航留学し、帰国後は外国の武器輸入を担当しました。維新後は明治憲法起草の中心となり、初代内閣総理大臣に就任。
【初代内閣総理大臣】
一農家の子からの大出世
生家は農家で一家を挙げて萩に移住。萩で出会ったさまざまな人々から影響を受けた博文は、後に大出世を成し遂げます。
明治40(1907)年に東京の大井村(現:品川区)に建てられた伊藤博文の別邸の一部を移築したもの。往時の面影をよく残し、優れた意匠が見られ、なかでも一枚板を使った鏡天井は必見です。
初代内閣総理大臣となった伊藤博文が14歳から28歳までを過ごした家。木造茅葺き平屋建ての小さな家で、そばには萩焼で作られた伊藤博文の陶像が建つ。隣接して東京より一部を移築した別邸もあります。
【幕末の動乱を駆け抜けた革命児】
天保10~慶応3(1839~67)年【享年29】
萩藩士の長男として誕生。明倫館や松下村塾などで学び、松陰にもその高い能力を認められていました。維新の道を邁進し、志をもつ庶民に入隊を許可した軍隊、奇兵隊を作りその名をとどろかせました。明治維新を目前に下関で病死。
散切り頭
自らを東行と名乗り出家したため髷を落とした。「東へ行く」という名は倒幕の決意であったともいわれています。
軍艦購入
藩に無断で軍艦を購入したため、重臣からひどく叱られたが、この軍艦が後の第二次長州征伐で大活躍。晋作の先見性が際立った出来事です。
達筆だった
生まれは菊屋横町に屋敷を構える名門の御曹司。萩博物館に所蔵してある直筆の手紙には几帳面な文字が並び、育ちの良さがうかがえます。
明治維新の発端となる挙兵を起こした功山寺をはじめ、息を引き取った終焉の地など、高杉晋作と深い関わりをもつスポットが点在しています。
城下町、菊屋横町のなかほどにある高杉晋作の誕生地。庭には、天保10(1839)年に中級武士の家に生まれた晋作の産湯に使ったとされる井戸や晋作の句碑があります。
高杉晋作、伊藤博文らが学んだ真言宗御室派の寺院。全国でも珍しい神仏習合の形態が見られます。県下最大の安山岩の石灯籠や日本最大級の大鏡、晋作ゆかりの朱色の大天狗面は必見です。
菊屋横町沿いの「高杉晋作誕生地」のそばにある広場。2010年に高杉晋作の銅像が建立されました。両刀を差した羽織、袴の立ち姿の晋作と記念撮影しましょう!
【尊王攘夷派の道筋を作った若き英才】
天保11~元治元(1840~64)年【享年25】
2015年の大河ドラマで脚光を浴びた松陰の妹・文の最初の夫。萩の平安古八軒屋に萩藩医の三男として生まれました。松陰没後は高杉晋作らと、尊王攘夷運動の先頭に立つ。しかし元治元(1864)年に禁門の変で敗れ、自害するに至りました。
松陰の妹・文の最初の夫
吉田松陰に高く評価されていた玄瑞は、松陰自らの勧めで文と結婚。熱き男、玄瑞は新時代のために奔走し、結婚生活はわずか7年と短い間でした。
尊王攘夷運動に力を注いだ若き英才、久坂玄瑞の誕生地。禁門の変で敗れ、若くして自刃した玄瑞をしのび、尊王攘夷派の公卿・三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑があります。
【軍事、政治ともに絶大な力を発揮】
天保9~大正11(1838~1922)年【享年85】
松下村塾の塾生のひとり。久坂玄瑞の紹介で入門、吉田松陰を生涯師として仰ぎ続けました。幼少から槍術を学び、のちに奇兵隊に入り軍監となる。明治維新後は徴兵制を定め、近代軍政を確立。明治政府で初代内務大臣となり、陸軍のみならず政界にも多大な影響を与えました。
【第三代内閣総理大臣】
低い身分から大臣へ
足軽以下の身分から、首相にまで上りつめた逸材。有朋の根底にある欧米に対する強烈な危機意識と執念がなせる業でした。
萩藩士・山県有稔の次男として生まれた有朋の誕生地。生家は残されていませんが、軍事や政治に絶大な力を発揮した彼をしのぶ石碑が立つ。
【近代日本の礎を築いた立役者のひとり】
吉田松陰や塾生たちと深いつながりがあった
天保4~明治10(1833~77)年【享年45】
萩藩医の家に生まれる。17歳で松陰に師事し、倒幕運動で手腕を発揮。幕末には「桂小五郎」の名で知られ、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と称されました。維新後は版籍奉還や廃藩置県などの推進に努め、日本を近代国家にすべく尽力しました。
【維新の三傑】
神道無念流免許皆伝
神道無念流剣術の免許皆伝を授けられ、入門から一年で塾頭を務める。ただし、その剣が血で染まることは生涯なかったといいます。
桂小五郎の名でも知られ、「維新の三傑」と詠われた木戸孝允の旧宅。孝允誕生の部屋や庭園が残り、国の史跡に指定されています。
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