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明応の政変~クーデター勃発で将軍家が分裂!

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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明応の政変~クーデター勃発で将軍家が分裂!

10代将軍足利義材は積極的に遠征を行いました。しかし、京都を留守にしているときに細川政元らのクーデターにあい、新将軍義澄を擁立されてしまいました。
【要点はココ!】
◎将軍不在を狙って、細川政元と日野富子がクーデターを起こし、足利義澄を将軍の座につけました。
◎義澄の治世下、実権を握っていたのは細川政元でした。
◎幕府と将軍の権威は名目だけになってしまいました。

明応の政変は細川政元らによるクーデター

応仁・文明の乱以降、室町幕府の権威は著しく弱まり、10代将軍足利義材(義稙(よしき:よしたね)の時代になると、影響力をほとんど失ってしまいます。そして1493(明応2)年、幕府の終末を思わせる事件が起こりました。

足利義材は前将軍義尚の路線を引き継ぎ、幕府を再興するため、近江の六角氏や河内の畠山氏の討伐を進めていました。その最中、足利義材が河内に出陣しているときに、足利義材と対立していた幕府の重鎮細川政元日野富子と組んでクーデターを敢行。堀越公方足利政知の子で、足利義材の従兄弟足利義澄(よしずみ)を11代将軍の座につけ、京都を制圧したのです(明応の政変)。

降伏した足利義材は幽閉されました。しかし、まもなく脱出して越中に逃れると、「自分こそ正統の将軍である」であると宣言します。こうして、同時期に2人の将軍が並び立つ事態となったのです。

明応の政変で将軍が2人に!

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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