フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー > 

二位の尼・平時子

平清盛の妻、生れた年は不明だが、三男宗盛の出生が久安3(1147)年といわれているので、少なくとも1130年以前の生れと推定され、壇の浦で入水したときは、60代にさしかかっていたはずである。清盛の長男重盛(しげもり)と次男基盛(もともり)は平時子の実子ではないが、三男宗盛(むねもり)以下、知盛(とももり)・重衡(しげひら)という男子と、高倉天皇の中宮となった徳子(とくこ)の実母。また、時子の腹違いの妹滋子は後白河天皇の后になり建春門院と呼ばれ、高倉天皇の実母。
時子は二位に叙せられ、清盛が没した養和元(1181)年後は、出家して二位の尼と称した。一族の都落ちでは、孫の安徳天皇と娘の建礼門院とともに西国にくだる。源平合戦の折、壇の浦で入水して亡くなった唯一の女性。

二位の尼・平時子の文化、歴史、地理に関するおすすめ記事

1件を表示 / 全 1件

平家滅亡はいかにして起こったか?西海に追いつめられ平家一門の最期の地となった「壇ノ浦」

日宋(にっそう)貿易で財を成し平清盛が太政大臣(だじょうだいじん)になるなど栄華を極めた平家一門でしたが、清盛の死後程なく滅亡しました。平家は、なぜ滅びなければならなかったのでしょうか。...