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平清盛

平安時代末期の武将、公卿。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男。『保元の乱』で後白河天皇側で勝利に貢献、『平治の乱』でも勝利し、武士初の太政大臣となり、日本初の武家政権を樹立。すると、後白河法皇の平氏への弾圧が強まったため、『治承三年の政変』で法皇を幽閉。政権を完全掌握した。ただ、公家・武士・寺社などが反発を強め、1180年、以仁王(もちひとおう)の挙兵から『治承・寿永の乱』となり、福原遷都や南都焼打ちで対抗。さらに反感を買い、全国が内乱状態に陥る中、病没した。

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