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楠木正成

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。息子は楠木正行(まさつら)・正時(まさとき)・正儀(まさのり)。1331年の元弘(げんこう)の乱で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携。千早城の戦いで数々の戦術を繰り出し、全国に倒幕の機運を広げ、鎌倉幕府滅亡に貢献。建武の新政が始まると多くの所領を与えられ、後醍醐天皇の絶大な信任を受けた。ただ、すぐに足利尊氏が離反し、湊川の戦いで敗北し自害した。“不世出の戦術家”などと言われている。

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