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恭仁京と長岡京ははぜ使われなくなった?平安京以前に造営された2つの都の放棄理由 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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恭仁京と長岡京ははぜ使われなくなった?平安京以前に造営された2つの都の放棄理由

794年に平安京が造営されて以来、皇居が移されるまで京都は天皇のお膝元であり続けました。
じつは平安京の前にも、2度の仮遷都が行われていたのです。

恭仁京が新都として抜擢される

奈良時代、平城京では戦乱や天災、疫病が頻発しました。そのため聖武天皇(しょうむてんのう)は740年に新都の建設を計画します。災いで穢(けが)れた旧都から新都に移り、国を清浄化しようと考えたのです。

場所は山背国(やましろこく)(山城国)相楽郡(さがらぐん)(木津川市)の加茂盆地。すでに離宮が存在し、『万葉集』でも絶賛されたほど自然の美しい地でもあり、有力貴族の橘(たちばな)氏が本拠地としていました。

恭仁京の建設は進んだが計画は中断

聖武天皇は加茂盆地の環境をとても気に入り、新都として恭仁京(くにきょう)の建設が741年からはじまりました。同年3月までには内裏ができ、翌月には貴族への移住命令が出されていました。

ところが、翌742年になると聖武天皇の関心は仏殿建設と難波宮(なにわのみや)に向けられてしまい、新都建設は事実上中断。744年の難波京遷都も天皇の重病で中止され、都は平城京にとどまったのです。

恭仁京を鎮護するために彫られた? 磨崖仏

木津川市の当尾(とうの)地区には多くの石仏や石塔があります。なかでも最大・最古とされるのが「大門仏谷阿弥陀磨崖仏(だいもんほとけだにあみだまがいぶつ)」です。磨崖仏とは自然の岩山にそのまま刻まれた仏のこと。

平安時代末期の作といわれていますが、より古い奈良時代の作ともされ、恭仁京を護るために彫られたという説もあります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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