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神田駿河台界隈の学生街はどう変わった 【東京都千代田区】

オフィス プラネイロ

更新日: 2023年11月24日

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神田駿河台界隈の学生街はどう変わった 【東京都千代田区】

神田駿河台界隈といえば、多くの学校が集まる、活気に満ちた学生の街として知られています。そこにある学校には、様々な過去がありました。古地図さんぽ、今回は、そんな街の歴史を振り返っていきます。

1968年千代田区神田駿河台 多くの学校が集まっています

1968年千代田区神田駿河台 多くの学校が集まっています
1968年昭文社刊行「千代田区全図」より

こちらは1968年の千代田区地図の一部。切り取った範囲は、国鉄御茶ノ水駅の南側、駿河台を中心とするエリアになります。中央の少し蛇行している太い道路は「靖国通り」です。その道路上には、水色の線で都電(東京都電)の線路が描かれています。

図を拡大してみましょう。明治大学、日本大学、明治高、錦華小、文化学院・・・多くの学校が集まっていることがわかります。

もう一枚、見ていきましょう。明治大学の東側には、日本大学理工学部、中央大学の校舎があります。ニコライ堂の隣には、「ニコライ学院」という名前も見つかりました。周辺には、これ以外にも東京電機大学、専修大学、フランス語学校「アテネ・フランセ」など、多くの学校がありました。

時は、ベトナム反戦運動や反安保闘争、そして学費値上げ反対闘争など、学生運動が様々な形で全国の学校に波及していた時代です。この街も、熱気を帯びていたことでしょう。喫茶店で熱く議論する学生たちの姿が、目に浮かんできます。

この年1968年5月に起こった「フランス5月革命」。これに呼応するように、学生運動の一派が、この界隈をバリケード封鎖する「神田カルチェ・ラタン闘争」(*注1)(1968年6月)を起こしたのが、この場所でした。
では、この学生の街が生まれる以前、ここはどんな所だったのでしょうか。少しさかのぼってみましょう。

*注1 :カルチェ・ラタンとはフランス・パリの地区名。学校が集中し、五月革命の中心舞台だった。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。

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