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駿河台は小さな台地。かつては湯島聖堂の丘とつながっていた

「駿河台」という地名は、旧国名「駿河」(現在の静岡県東部)に由来しています。

江戸幕府を開いた徳川家康が亡くなった後、本拠地の駿河から、多くの家臣(旗本・駿河衆)がこの地に移り住んだことから、この名がついたそうです。

「江戸名称図絵 御茶の水水道橋」歌川広重(江戸末期)   東京都立図書館TOKYOアーカイブより

本郷台地の末端部に位置するこの駿河台と、湯島聖堂がある湯島台は、元々ひとつの丘でした。神田山と呼ばれていたそうです。それが、神田川(神田上水)の開削により、二つの丘に分断されます。江戸時代初期のことでした。
なるほど、現在の御茶ノ水駅から神田川を見下ろすと、深い谷のような地形になっていて、「丘が削られた」という事実が想像できます。当時の浮世絵には、のどかな森と水の流れる風景が描かれています。

時は流れ、明治・大正の時代になると、この台地には多くの学校や病院が集まるようになります。その明確な理由は定かではありませんが、江戸幕府崩壊により、この地に住んでいた幕府の旗本たちが去ってしまい、残された多くの空いた屋敷や土地があった為、といわれています。

この地に集まった学校。ある共通点とは?

この地に集まった学校の中でも、明治、中央、日大には共通点がありました。
それは、いずれも「法律を学ぶための学校」としてスタートしている点です。
簡単に沿革を列記してみましょう。

■明治大学 
1881(明治14)年、「明治法律学校」として有楽町に開校。1886年神田駿河台に校舎を新築し移転。1903年明治大学と改称。
■中央大学
1885年、「英吉利(イギリス)法律学校」として神田錦町に開校。1905年中央大学と改称。1926年駿河台校舎を完成させ移転。
■日本大学
1889年、「日本法律学校」として飯田町(現飯田橋)に創立。1903年日本大学と改称。大正期に駿河台に校舎を新築。

この駿河台から少し離れていますが、専修大学も「専修学校」、法政大学も「東京法学社」という法律学校が前身です。

明治維新以降、急速な近代化・西洋化の進んだ日本では、高度な法律の知識が求められるようになりました。こうした社会のニーズに応えるべく、法律家を養成する教育機関が続々と誕生したのが、この時代でした。上記の明治、中央、専修、法政に早稲田を加えた5校は、「五大法律学校」と呼ばれていたそうです。

1907(明治40)年大倉書店発行 東京市神田区全図(部分)  東京都立図書館TOKYOアーカイブより

明治時代後期の駿河台の地図を見てみましょう。街の一角に小さな「明治大学」の文字が読み取れます(赤丸印)

東京を代表する総合大学が、かつてこのように小さな敷地だったとは、少々驚きです。

現在ある東京の私立総合大学の多くは、このように、法律学校を母体として、やがて総合大学へと成長していきます。
なるほど、法政大学の「法政」という校名は、その起源を端的に示していたのですね。

中央大学のその後 郊外移転と都心回帰

冒頭の地図でご紹介した中央大学は、その後、駿河台を離れ、八王子市へキャンパスを移します。
移転は1978(昭和53)年に完了しました。
当時の空中写真を並べてみました。「口字型」校舎のあった場所は、三井住友海上駿河台ビル(1984年竣工)へと変わっています。

【左】1961-64頃 空中写真 【右】1988-90年頃 空中写真 いずれも中央大学駿河台キャンパス付近  「今昔マップon the web」より

この当時「大学の郊外移転」は、時代の流行でした。

都市部への人口集中を抑制したい政府は、法律により東京都心の大学の施設拡張を制限していました。一方で大学に進学する学生は年々増加していきます。そこで各大学は、良好な教育環境を求めて、郊外への移転を構想するようになります。
その結果、中央、法政、青山学院などが、相次いで郊外に新キャンパスを開校させました。中でも中央大学は、その本部までも移転させたことから、象徴的な出来事として話題になったようです。

時代は流れ、近年、「大学の都心回帰」現象が顕著になってきました。郊外に移したキャンパスを、もう一度都心に戻そうというのです。
郊外にあり交通の便が悪いことから、都会にあこがれる受験生に敬遠される。それにより学生が集まらなくなり、結果として学校の評価が下がってしまう、という経営上の問題がその背景にあるようです。また、上記の法律が撤廃されたことも、大きな要因となりました。

そんな潮流の中、中央大学は、法学部を2023年春に八王子から茗荷谷キャンパス(文京区)に移転させる計画を進めています。「英吉利法律学校」から始まった法学部は、およそ半世紀ぶりに都心に戻ってくることになります。

新キャンパスは東京メトロ茗荷谷駅前に位置している/昭文社地図に加工

現在の神田駿河台。今も変わらぬ学生の街です

現在の神田駿河台。今も変わらぬ学生の街です
2022年昭文社刊行「街の達人全東京」より

こちらは、神田駿河台周辺の現在です。冒頭の地図と見比べると、そこにある学校には様々な変化があります。
明治高校は移転していますし、錦華小学校は、お茶の水小学校に名称が変わっています。
明治大学は「リバティタワー」(1998年竣工)という23階建ての高層ビル校舎をもつ「都市型大学」となりました。
時代は移り、人や建物は変われども、駿河台は学生の街であり続けているようです。

古い地図には、色んな発見の種が眠っています。それを探しにいってみましょう

古い地図には、色んな発見の種が眠っています。それを探しにいってみましょう
大東京五十景 「聖橋よりニコライ堂を望む」絵葉書(1930年頃)     東京都立図書館TOKYOアーカイブより

さて、今回は1968年の古地図から、学生街のちょっとした歴史を紐解いてみました。東京の私立総合大学の成り立ちをたどると、共通点があることがわかりました。
古い地図には、意外な発見の種が眠っています。みなさんも「ちょっと昔」地図から、未知の世界への旅に出かけてみては如何でしょうか。

【参考にした主な資料:千代田区HP、中央大学公式サイト、明治大学公式サイト、日本大学公式サイト】

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昭文社が刊行してきた都市地図には、道路や鉄道、河川など街の骨格となる情報はもちろん、町丁名や地番、学校・役場などの公共的施設から、住宅団地やアパート、スーパー・デパート、工場や倉庫などの民間施設まで豊富に掲載してきました。収録内容も時代とともに変化するなど、地図はその時々の景観や暮らしが垣間見える「街の記憶」でもあります。

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<商品の概要>
◆収録されている都市地図の刊行年 「1968年」「1985年」「2001年」「2014年」

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。

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