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中山道は木曽山中を通るルートで江戸と京都を結んだ

中山道は、1602(慶長7)年、東海道に次いで2番目に伝馬制が敷かれた街道で、五街道の出発点である日本橋から板橋、大宮、高崎と北へ向かい、下諏訪(しもすわ)、木曽谷(きそだに)を経て近江の草津で東海道と合流、京都三条大橋へと至ります。中山道は木曽を通ることから「木曽街道(木曽路)」とも呼ばれ、山道が多いのも特徴です。

中山道の埼玉県域にあった9つの宿場町とは

街道の全長は約530㎞で、東海道より40㎞ほど長く、宿場数は69宿と「東海道五十三次」より16多くありました。そして、埼玉県域にある宿場は、蕨(わらび)宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿の9つです。

【中山道の宿場町①】蕨宿

日本橋を発ち最初の宿場町が板橋宿(東京都板橋区)で、その次、戸田川(荒川の一部)を越えたところにあるのが県内最初の宿場町、蕨宿です。幕府は防衛上の理由から戸田川に橋を架けることを禁じていたため、旅人は船で「戸田の渡し」を渡りました。

江戸期の蕨宿は綿織物の生産地にして物資流通の中継点でもあったため、浦和宿や大宮宿よりも人口が多くまっていました。宿場町の周りは防備と用水を兼ねた堀で囲まれ、川止めに備えて2軒の本陣が置かれていました。

【中山道の宿場町②】浦和宿

【中山道の宿場町②】浦和宿
浦和宿の中山道沿いの調神社は、街道整備前のはるか前に創建され街道をゆく人々にも親しまれた

次の宿場町となる浦和宿は蕨宿から約5.5㎞。旅籠が15軒ほどあるだけの小さな宿場町でしたが、毎月二と七のつく日に開かれる「二七市場(にしちいちば)」では農作物などがもち寄られ、賑わいを見せていました。

本陣近くには、徳川家康や秀忠が鷹狩りの休憩所や宿泊所として使用した「御殿(ごてん)」という施設がありました。

【中山道の宿場町③】大宮宿

【中山道の宿場町③】大宮宿
大宮宿の中心的存在の氷川神社の楼門。中山道と参道は交差していて参拝にもよい位置にある

県内3番目の宿場町・大宮宿は、もともと武蔵一宮・氷川神社の門前町として栄えていた場所。この神社は、武蔵国に200以上ある氷川神社の総本社で、大宮氷川神社と呼ばれていました。「大宮」という地名は、この神社名に由来しています。

この大宮は、寛永年間に中山道が整備されてからは宿場町・市場として発展し、最盛期には本陣1軒、脇本陣9軒が置かれました。脇本陣の数は、五街道全宿場で最多です。

中山道の宿場町④】上尾宿

江戸時代、旅人が1日に歩く距離は約10里(約40㎞)。県内4番目の上尾宿は、江戸から9里16町(約37㎞)の距離にあり、次の桶川宿ともども、日本橋を七つ(午前4時)に出た旅人が最初に泊まる宿場町でした。

上尾宿は米の積出拠点でもあり、川越・岩槻・菖蒲(しょうぶ)(久喜市)にも道が通じていたため旅籠が多く、本陣も大きいものでした。飯盛女(めしもりおんな)も多く、遠く川越から通ってくる客もいたといいます。

【中山道の宿場町⑤】桶川宿

次の桶川宿は日本橋から約10里、上尾宿からはわずか34町(約3.7㎞)の距離にありました。本陣は加賀前田藩ら参覲交代の大名が定宿とし、1861(文久元)年には、江戸へ下向した皇女和宮(かずのみや)も宿泊しています。本陣の敷地は約1000坪、建坪は200坪あり、現在その一部が府川(ふかわ)本陣跡として残っています。加えて脇本陣は2軒置かれました。

また、桶川一帯は紅花の栽培が盛んで、他所よりも早く収穫される「早庭(はやば)もの(武州紅花(ぶしゅうべにばな))」として高値で取引されました。

【中山道の宿場町⑥】鴻巣宿

県内6番目の鴻巣宿には、家康が鷹狩りをするとき休憩や宿泊する御殿があったため、街道は整備されて農産物の集散場となっていました。江戸時代中期からは雛人形(鴻巣雛(こうのすびな))の生産が盛んになり、現在も「人形の町」として知られています。

【中山道の宿場町⑦】熊谷宿

鴻巣宿〜熊谷宿間には間(あい)の宿(しゅく)(休憩用の町場)である吹上宿がありました。その先には「久下(くげ)の長土手」と呼ばれた桜の名所・熊谷堤があります。土手を下ると、忍藩主が鷹狩りの際に休憩したという茶店「御狩屋(みかりや)」があり、碑が残っています。

また、熊谷宿は、中山道で人口や家数が本庄宿に次いで多く、二と七のつく日には市が立ちました。

【中山道の宿場町⑧】深谷宿

続く県内8番目の深谷宿は、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒があり中山道でも最大規模の宿場町でした。生糸の商いなど商業が盛んで、近江(おうみ)商人や越後商人が進出してきました。また、ほとんどの旅籠が飯盛女を抱えていて、遊郭も多くありました。

【中山道の宿場町⑨】本庄宿

9番目の本庄宿は、人口・家数とも中山道最大の宿場町。本庄城の城下町として栄えていた本庄は、城の南に中山道が整備されると越後、信州などへの交通の拠点となりました。

宿場町の北を流れる利根川には3つの河岸があり、秩父や群馬などから運ばれてくる荷の一大集散地となっていました。

中山道は東海道の旅に比べてリスクが少なかった

およそ海側を進む東海道は、大部分が平坦ですが、大きな河川が多く川越えのたびに荷の積み替えが必要でした。また、大雨による川止めが多く、そのたびごとに宿泊費がかさみました。

他方で中山道は、冬季はかなり冷え込むうえに、距離が長く山道も多いのですが、川越えや川止めがほとんどありません。そのため、参勤交代や朝廷の勅使である日光例幣使(にっこうれいへいし)、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)、琉球使節などは中山道を利用しました。

当時の旅は、距離の長短よりも、目的地までの日数をいかに減らせるかが問題だったのです。こうした面からも、中山道は、江戸と地方とを結ぶ大動脈の役割を果たしていたのです。

旧中山道が百貨店内を通る!?

熊谷市内の旧中山道をたどっていくと、八木橋百貨店の入り口(1階)にいきつきます。店内を旧街道が走っているのです。

八木橋百貨店は、2017(平成29)年に創業120周年を迎えた老舗で、夏には熊谷地方気象台の発表をもとに、店頭の巨大温度計でその日の気温を表示していることでも知られます。

かつての店舗は、旧中山道を挟むように、街道の南北に立っていました。それが1989(平成元)年の改築時、百貨店の敷地の一部を歩道に提供する代わりに、 現在形の建設が認められたのです。

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