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伏見の酒造は豊臣秀吉の時代に本格化

戦国時代の末期になると、酒づくりは本格化しました。要因となったのは、豊臣秀吉による伏見城の建造です。秀吉は没するまで伏見城で政務を行い、城下には多数の大名屋敷が建てられました。人口も増え、伏見は数万人が暮らす都市となって酒の需要も高まったのです。

さらに、秀吉が宇治川を巨椋池から切り離して城下に引き入れるなどの改修を行ったため、原材料となる酒米や燃料の薪、炭などの運搬もスムーズに行われるようになりました。酒づくりは伏見の主要産業となり、1600年ごろには「伏見酒」の名称が定着しました。

伏見酒の名が全国に知れ渡ったのは江戸時代

その後、江戸時代になって伏見城も大名屋敷も取り壊されましたが、伏見は淀川水系を利用した水運と京街道の陸運の要所として発展しました。高瀬川による運搬も活発となり、全国的に伏見酒の名が知れわたるようになりました。

伏見酒の停滞と復興

しかし、幕末の「鳥羽伏見の戦い」で街のほとんどが焼失したこともあり、酒づくりは一時停滞しました。それでも1889年に東海道本線が開通すると、伏見の酒造家は東京での取引を開始。こうして伏見酒の人気は回復していったのです。

伏見酒はまろやかで上品な女酒

そんな伏見酒は灘(兵庫県)の「男酒(おとこざけ)」に対し、「女酒(おんなざけ)」とも呼ばれています。その理由は水質の違いです。灘などの酒造所では、ミネラル分の多い硬水を使用するのに対し、伏見では比較的少ない中硬水で製造しています。

硬水の酒は味の引き締まって力強い味わいが特徴で、中硬水は口当たりがまろやかで上品な繊細さを醸します。この水の違いこそが、伏見の女酒を生む最大の要因といえるでしょう。

伏見酒も味わえる?!左党の集まるディープスポット「会館」

一般には「横丁」と呼ばれ、路地に店舗がひしめく飲み屋街を京都では「会館」といいます。狭いエリアに10人も入れば満席の店が軒をつらね、夜な夜な地元の酒好きが集っています。七条の「リド飲食街」、四条の「四富会館」、西院の「折鶴会館」などが有名で、観光地化されていない京都の素顔をかいま見ることができそうです。

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Part.1 地図で読み解く京都の大地

・京都府の4地形区と断層/京都盆地とその出入り口(逢坂と大山崎)
・琵琶湖疏水の秘密/洛中と洛外を隔てるおどい
・観光のメッカ東山の地形(地獄の入り口六道珍皇寺)
・失われた巨椋池/天橋立はなぜあのような地形になったのか
・舞鶴が重要港湾となった地形的な秘密
・霧のまち亀岡(亀岡盆地)

…などなど京都のダイナミックな自然のポイントを解説。

Part.2 京都を駆ける充実の交通網

・山城盆地を通る街道(東海道、中山道の終着地)
・若狭と京都を結ぶ「鯖街道」
・日本初の一般営業用電車が通った京都市電
・京都鉄道博物館
・梅小路
・京都の私鉄〇〇な阪急
・大赤字から復活した京都丹後鉄道

…などなど京都ならではの交通事情を網羅。

Part.3 京都の歴史を深読み!

・丹後に一大勢力が存在した証拠 三大古墳に埋葬された人々
・古代日本を支えた渡来人と京都の関係
・なぜ京都は都になったのか 恭仁京~平安京までの変
・南北朝動乱の始まり 笠置山の戦い
・信長、光秀、秀吉…みんな京都で死んだ
・幕末の騒乱の舞台となった京都
・近代化にいち早く着手!日本初の博覧会は京都の寺で開かれた

…などなど、激動の京都の歴史に興味を惹きつける。

Part.4 京都で育まれた産業や文化

・シンボル京都タワーと近代建築
・学問の都・京都の大学
・京料理とそれを支える伝統野菜
・「丹波」ブランドをめぐる攻防
・日本映画と京都
・「女酒」伏見の酒蔵
・王城の裏鬼門「男山」と岩清水八幡宮

…などなど京都の発展の歩みをたどる。

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