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甲府城の歴史~徳川家康に対抗するために築城された!

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月16日

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甲府城の歴史~徳川家康に対抗するために築城された!

甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。
関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたこの城はどのようなものだったのでしょうか。

甲府城の築城

1582(天正10)年、武田氏の滅亡後、甲斐国はまず織田信長の領国となりました。しかし、同年に起こった本能寺の変により、空白地帯となった武田氏旧領を巡る「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」が発生します。この戦いにおいて三河国の徳川家康と相模国の北条氏が甲斐国の武田氏旧領の支配をめぐって争いましたが、最終的には徳川・北条同盟が成立し、家康の支配するところとなりました。

その後、豊臣秀吉が天下統一を成しとげ甲斐国に入国すると、家康は関東に移封されます。秀吉は家康を警戒し、西側に備えた重要拠点として甲府城の築城を命令しました。

築城は甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって始められ、浅野長政(あさのながまさ)・幸長(よしなが)父子によって完成しました。そして、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城の築城

かつての甲府城の内城(内堀内側)は、平和通りやJRの線路の北側にまで達していました。

甲府城の中にあった温泉

古い文献によると、甲府城には温泉が湧いており、冷泉で脚気・眼病に効果があったと言われています。

城内に温泉が湧いていたのは全国的にも珍しいですが、あくまで城内にある温泉のため一般の人々は入れなかったそうです。武士たちが、日頃の疲れを癒していたのかもしれません。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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