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九鬼嘉隆は「海賊大名」!海上の城と鉄甲舟の秘密 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2022年10月5日

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九鬼嘉隆は「海賊大名」!海上の城と鉄甲舟の秘密

荒れる熊野灘を制して海を支配した、戦国大名の九鬼嘉隆。尾鷲の九鬼から大王崎、鳥羽へと拠点を移して活躍した軌跡をたどります。

九鬼嘉隆がつくった「鳥羽城」とは

かつて鳥羽には、まるで海に浮かんでいるように見える鳥羽城がありました。城の正面となる大手水門を鳥羽湾に向け、外堀に海水を流入させて周囲を海で囲んだ、水軍運用を重視した造りです。妙慶川河口の南側に突き出た小山に、三重の天守閣がある城が築かれていました。

鳥羽城をつくったのは、九鬼水軍として名を馳せた九鬼嘉隆(くきよしたか)で、1594年に完成させました。鳥羽城は、総坪数3万2280坪(約10万m2)の広さがあり、そこには今、鳥羽市役所や市民文化会館が建っています。

本丸のあった場所は長く小学校の敷地となっていました。二の丸あたりには鳥羽水族館が立っています。
国土地理院標準地図(Vector)を元に作成

九鬼嘉隆は志摩国波切城で生まれた

九鬼氏は、室町時代より熊野海賊の一員として紀州九鬼浦(現尾鷲市(おわせし)九鬼町)で活動した一族です。海賊は、現在のイメージとは違い、海上の船舶を安全に誘導する水先案内人や物資を運ぶ廻船をしたり、大名の軍隊である水軍に属していた人たちを指します。九鬼氏は勢力拡大を狙って、志摩国波切城(なきりじょう)へ移ります。現在の大王崎(だいおうざき)であり、自然の地形を利用した要塞です。九鬼嘉隆は、そこで生まれました。

九鬼嘉隆とはどのような人物なのか?

戦国時代、九鬼氏は志摩から紀伊にかけて複数いた海賊衆をまとめました。当主の九鬼嘉隆は、伊勢国司の北畠氏に仕えていましたが、北畠氏が信長に屈服したことを機に、信長の海戦部隊となりました。

九鬼嘉隆の功績と鉄甲舟の謎

1574年、信長が攻略に苦心していた長島の一向一揆を攻撃して制圧。これを皮切りに、次々と戦果をあげていきました。

1576年、毛利村上水軍との戦いとなった木津川口(きづがわぐち)の戦いが起こります。このとき、信長の指示により、九鬼嘉隆は鉄甲船を造りました。鉄砲が通らない、炎上しない船で、詳細は不明ですが、限られた箇所に鉄の装甲がなされたとみられます。信長が大金をつぎ込み、九鬼水軍は強大になっていきました。

信長に抵抗した長島の一向一揆

木曽三川に囲まれた長島は、信長の天下統一に反抗していました。当時、長島には大坂の石山本願寺の末寺である願証寺(がんしょうじ)があり、長島の城主を追い出して一向宗門徒による自治を行っていました。信長の攻撃を2回退けたのち、3回目の攻撃で、九鬼水軍を中心とした数百隻を含めた大軍に襲われました。砦から脱出した男女1000人あまりが斬り殺され、砦に残った2万人あまりは焼き殺されたといいます。

九鬼嘉隆は時の将軍に重用されるも関ヶ原の乱で敗戦し自害

九鬼氏は船を操る技術だけでなく、造船技術もあったため重用され、信長の死後は秀吉に仕えることとなり、志摩3万5000石を与えられました。1592年から始まった秀吉の朝鮮出兵で、九鬼嘉隆は水軍総大将に任命され、大型の戦艦に日本で初めて日の丸の旗を掲げた、日本丸を率いました

関ヶ原の戦いが起こると、九鬼嘉隆は石田三成側(西軍)について敗戦。徳川家康側(東軍)についていた息子の九鬼守隆(もりたか)が、決死の助命願いをして許されます。ところが、それを知らない九鬼嘉隆は、逃げた先の答志島(とうしじま)で切腹。九鬼嘉隆は、「鳥羽城が見えるところに埋めてくれ」と言い残し、首は鳥羽城を一望できる築上山(つかげやま)に埋葬されました。九鬼嘉隆の胴を葬ったとされる墓は、和具漁港の町中にあり、近くには切腹した場所とされる洞仙庵(とうせんあん)(廃寺)跡の石碑があります。その後、九鬼守隆が当主となりました。

九鬼嘉隆の息子・守隆の死後、跡目争いののち九鬼水軍は消滅

1632年、九鬼守隆が亡くなると、跡目争いが勃発。志摩の地を取り上げられ、2つの九鬼家に分裂したまま三田(さんだ)(現兵庫県)と、綾部(あやべ)(現京都府)に移されました。海がない土地だったため、ここで九鬼水軍は終わりを迎えました。

なお、鳥羽は戦国時代まで泊(とまり)と呼ばれ、京都の醍醐寺領の港町として発展しています。鳥羽の名の由来は、「泊場」と呼ばれていたからではないか、という説があります。

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・三重県を横切る中央構造線 南北で大きく異なる地質
・琵琶湖は伊賀にあった! 古代の地殻変動の痕跡を探る
・赤目四十八滝の独特な地形と生きた化石オオサンショウウオ
・鳥瞰図で見る 昭和初期の赤目四十八滝と香落渓
・2万年前は山だった? 志摩半島誕生の秘密
・若き日の大正天皇も泳いだ! 日本初の海水浴場二見浦
・奥伊勢の香肌峡の不思議 なぜ超硬水が湧き出す?
・飛び地と名勝瀞八丁が複雑すぎる3県境をつくった
・伊勢湾台風のせいで飛び地に? 愛知県に限りなく近い木曽岬町
・世界遺産鬼ヶ城を生んだ巨大な熊野カルデラ火山
・尾鷲の雨量が尋常でないのは海流と大台ヶ原のせい?

…などなど三重のダイナミックな自然のポイントを解説。

Part.2 三重を駆ける充実の交通網

・伊勢湾を渡って川を越え鈴鹿峠へと向かう東海道
・三重と浜松、大阪がつながる!? 太平洋新国土軸構想とは
・御師の活躍で大いに賑わった内宮と外宮を結ぶ参宮街道
・鳥瞰図で見る 吉田初三郎が描いた約90年前の参宮街道
・初瀬街道の「あお」越えと便利な参詣システム伊勢講
・街道に餅が並んだ理由は? 吉野へと続く鯖&塩街道
・参拝客を運んだ神都線の路面電車 バス路線網で車両が復活!?
・伊勢湾、熊野灘の海運と海上の百貨店赤須賀船
・峠が多い熊野古道伊勢路 戦前にはロープウェイがあった
・つながった南紀への路線 紀勢本線の難工事とは?
・名張と松阪を結ぶはずが……秘境駅だらけな名松線の謎
・東大卒の剛腕社長による英断!? 近鉄を発展させた軌間拡幅工事
・社名がコロコロ変わる養老鉄道 いま何代目? どこが運営?
・貨物輸送の歴史がわかる三岐線の貨物鉄道博物館
・片道135㎞の路線もある! バス中心の三重の交通網

…などなど三重ならではの鉄道事情を網羅。

Part.3 三重の歴史を深読み!

・日本最大の恐竜が鳥羽にいた? ミエゾウから探る古代の三重
・あちこち巡行して決めた! 神宮が伊勢市にあるワケ
・壬申の乱で敗れた大友皇子は伊賀を経て東国で生きのびた?
・50年かけて少しずつ解明 明和町にあった幻の宮・斎宮
・平家のルーツは伊勢にあり! でも、ほんとうは伊賀だった?
・天皇の側近から没落するも明治維新で復活した北畠氏
・伊賀に忍者が生まれたのは修験道の行場が多かったから?
・徳川家康が駆け抜けた? 謎多き伊賀越えルートを歩く
・海賊大名と呼ばれた九鬼嘉隆 海上の城と鉄甲船の秘密
・築城の名人藤堂高虎は7回も主君を変えていた!
・クジで藩の命運が決まった? 幕末・維新の桑名藩の顛末
・津から四日市、そして津へ コロコロ変わった県庁所在地
・鳥瞰図で見る 吉田初三郎が描いた約90年前の津

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