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三里塚闘争を経て成田空港が開港するまでの道のり 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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三里塚闘争を経て成田空港が開港するまでの道のり

成田市三里塚に国際空港の建設が決定しました。
しかし、周辺住民は猛反対。
首都圏の国際空港は、どのようにして開港までこぎ着けたのでしょうか。

「三里塚闘争」は代替地だった!成田空港建設地の決定

1962(昭和37)年、羽田空港が手狭になってきたことを受け、運輸省(当時)は 第二国際空港の建設を決定。候補地に挙がったのは、浦安、富里・八街、霞ヶ浦(茨城県)の埋め立て、金沢八景(神奈川県横浜市)沖の埋め立ての4カ所でした。一度は 富里・八街での建設が内定したものの、地域住民の反対にあい、代替地として浮上したのが成田市三里塚でした。

時の佐藤栄作内閣は、1966(昭和41)年6月22日に建設予定地を三里塚にすると発表。それからわずか2週間後に閣議決定し、新東京国際空港公団が発足しました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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