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宿場町は東海道の発展を支えた

宿場(宿・宿駅)とは、旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりする街道の拠点をいいます。江戸時代、隣の宿場から運ばれてきた荷物や書状は、人馬を交代して次の宿場へ運ぶよう義務付けられました。このとき乗り継ぐ馬を伝馬制度を宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)といいました。

宿場には、参勤交代の大名や公家、幕府の役人などが宿泊する本陣脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)のほか、伝馬や飛脚による公用の荷物を継ぎ立てる問屋場などが置かれました。人馬にかかる費用は、宿場の町人や周辺農民が負担しましたが、その代わり租税が免除され、宿泊業や荷物運びによって一定の収入を得ることができました。

愛知県域の宿場町9つ

東海道の全53宿場(東海道五十三次)のうち愛知県域(三河国と尾張国)には二川(ふたがわ)、吉田(豊橋)、御油(ごゆ)(豊川)、赤坂(音羽)、藤川岡崎池鯉鮒(ちりゅう)(知立)、鳴海(なるみ)、(熱田)の9宿が置かれました。

「東海道五十三次」の略図

「東海道五十三次」の略図

東海道は、江戸日本橋と京都三条大橋の約500㎞を結ぶ大幹線で、日本橋を出て最初の宿場・品川宿から大津宿(滋賀県)まで合計53の宿場が置かれました。愛知県域には青色で示した9つの宿場がありました。

【愛知県の宿場町①】二川宿

遠江国(とおとうみのくに)(静岡県)から境川を渡り、三河国に入って最初の宿場が二川宿。二川と大岩という二つの村からなる小規模な宿場で、宿場町であると同時に田畑を耕し年貢を納める農村でもありました。

当時の名産品は赤味噌。二川宿は戦災にあわなかったため、現在でも江戸時代の町割が残っており、当時の雰囲気を味わうことができます。

【愛知県の宿場町②】吉田宿

続く吉田宿は、豊川と朝倉川が合流する交通(舟運)の要衝でした。東三河の中核をなす宿場で、吉田城の城下町や湊町としても栄え、宿の中心には本陣が2軒、脇本陣が1軒、問屋場1カ所、多くの旅籠がありました。

豊川にかかる吉田大橋は、橋の上から吉田城が見え、東海道三大大橋のひとつに数えられた観光名所。また、豊川沿岸にあった吉田神社は、祇園祭で行われる勇壮な打ち上げ花火が有名です。

【愛知県の宿場町③】御油宿

御油宿は吉田宿から約10㎞、姫街道と東海道の合流地点にありました。姫街道は、浜名湖の北側を通り御油宿と見附(みつけ)宿、あるいは浜松宿(ともに静岡県)を結ぶ街道で、女性がよく利用したことからこの名がついたとされています。

小規模な宿場でしたが歓楽街として栄え、大名にも好まれていたためか、多いときには4軒の本陣がありました。街道沿いの「御油の松並木」は東海道随一といわれ、現在も見ることができます。

【愛知県の宿場町④】赤坂宿

その松並木を歩くと約1.7㎞で赤坂宿に着きます(これは東海道の宿間で最短)。赤坂は、関ヶ原の戦い後、幕府の直轄地になっていたところで、陣屋(代官所)が置かれ賑わっていました。本陣は3軒、脇本陣が1軒あり、御油宿同様、歓楽街として栄え80軒以上の旅籠がありました。

【愛知県の宿場町⑤】藤川宿

藤川宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒と小規模ですが、鎌倉時代から続く古い宿場で、穂の先が紫色になる「むらさき麦」で知られています。宿場入口は「棒鼻(ぼうはな)」と呼ばれ、宿場の境であることを示す棒示杭が建てられていました。

宿には片目の不動尊像を祀る明星院(みょうじょういん)があり、この不動尊は合戦で家康の身代わりになって勝利をもたらしたと伝えられています。

街道を進むと約1㎞のあいだに90本ほどのクロマツが並ぶ「藤川の松並木」が見えてきます。これは2代将軍・徳川秀忠の命で植えられたものです。

【愛知県の宿場町⑥】岡崎宿

岡崎宿は岡崎城の城下町で、112軒の旅籠が軒を連ねる大きな宿場でした。城の近くを通る東海道は、防衛上27回も曲がる構造(岡崎二十七曲り)をとりました。

岡崎城は5万石と石高は少なかったのですが家康生誕の地として格式が高く、徳川家ゆかりの史跡も多く残っています。城下の船着き場では、城米や廻米の積み卸しが行われました。

【愛知県域の宿場町⑦】池鯉鮒宿

次の池鯉鮒宿は、本陣・脇本陣各1軒、旅籠35軒という宿場で、毎年4月末から5月初めにかけては数百頭の馬が集められ、馬市が開かれました。馬飼や馬の売買・仲介をする馬喰(ばくろう)のほか、物売りや役者、遊女らも訪れて市は大いに賑わったといいます。

【愛知県域の宿場町⑧】鳴海宿

三河と尾張を隔てる境川(境橋)を渡ってしばらくいくと、間の宿として尾張藩が設けた有松村があります。ここを過ぎると、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒からなる鳴海宿です。有松とともに、手ぬぐいなどに使われる「絞り」で知られていました。

【愛知県域の宿場町⑨】宮宿

続く宮宿は東海道最大の宿場で、本陣2軒、脇本陣1軒、最大で240もの旅籠が軒を連ね、人口は1万人を超えていました。この大発展は、家康が熱田台地の北端に名古屋城を築き、堀川で結んだ南端の熱田を交易港としたことによります。

なお宮宿は、古くから熱田神宮の門前町として栄えており、熱田宿とも呼ばれました。垂井(たるい)宿(中山道)に至る美濃街道や桑名宿に至る佐屋街道との分岐点という交通の要所でもあり、熱田神宮には年間を通して多くの参拝者が訪れました。

熱田と桑名は海路で結ばれた

今では埋め立てによって伊勢湾の地形が大きく変わり想像するのも難しいですが、江戸時代、宮(熱田)宿から西、熱田神宮の南にある「宮の渡し」から桑名宿までは東海道唯一の海路になっていました。宮の渡しから次の桑名宿までの距離が約28㎞だったため「七里の渡し」(1里は約4㎞)と呼ばれていました。

この海路は、江戸時代に東海道の宿駅が置かれる前の鎌倉~室町時代から利用されていました。宮の渡しから桑名宿までの所要時間は、天候や潮の干満などにもよりますが、およそ4~6時間。船には大名などが乗る御座船や一般庶民が乗る帆掛け船などがあり、京都へ向かう旅人や伊勢・熱田神宮に参拝する人で大いに賑わいました。

なお、船が苦手な旅人には、宮宿から佐屋宿まで佐屋街道を歩き、川舟で木曽川を下って桑名宿へ至るというルートもありました。佐屋街道は女性や子どもがよく利用したため、「姫街道」とも呼ばれました。

愛知県の宿場町は東海道の中心で重要な役割を担った

このように、江戸と京都を結ぶ大幹線・東海道において愛知県はちょうど中間地点にあり、県域の9宿は、規模こそ違えど交通や経済の要所だったのです。

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【見どころ】 Part.1 地図で読み解く愛知の大地

・山地の三河と低地の尾張、愛知県が東高西低なわけ
・1500万年前の奥三河には富士山級の大火山があった!
・自然の断崖が名城を守る!大地の端に築かれた名古屋城
・西南日本を分断する大断層、中央構造線が奥三河に露出!
・知多半島の南部の地層で産する、美しく多様な深海生物化石群
・県内の死者予測は2.9万人、南海トラフ地震とは何か?
・伊勢湾台風がもたらした高潮ほか大被害のメカニズム

・・などなど愛知のダイナミックな自然のポイントを解説。

【見どころ】Part.2 愛知を駆け抜ける鉄道網

・愛知県の鉄道の始まりに名古屋駅は存在しなかった!?
・世界初のビュフェもあった幻の関西鉄道はどんな路線?
・名鉄名古屋本線はかつて名古屋を境に東西で別の私鉄?
・新幹線に負けない魅力満載!進化を続ける近鉄名阪特急
・国産初の超低床路面電車!リトルダンサーが走る豊橋鉄道
・飯田線には昭和晩年まで東西の名車が集結していた!?
・線路やホーム跡が現存する奥三河の秘境鉄道・田口鉄道

…などなど、意外と知られていない愛知の鉄道トリビアを厳選してご紹介。

【見どころ】Part.3 愛知の歴史を深読み!

・大集落の朝日遺跡が教える縄文から弥生への移り変わり
・東海地方最大の前方後円墳、断夫山古墳が示唆するもの
・須恵器の猿投窯に始まり中世に発展した愛知の窯業
・応仁の乱の発端となった大激戦は尾張と三河の守護職争い!?
・信長が少ない軍勢で挑んだ桶狭間の戦い勝利の裏側
・家康後の岡崎城主・田中吉政が築いた岡崎二十七曲りとは?
・都市ごと清洲から名古屋へ移転した清洲越えがすごい!
・廃藩置県後の県域には12県、愛知県はどのようにして誕生?

・・・などなど、興味深いネタに尽きない愛知の歴史。知れば知るほど愛知の歴史も面白い。

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