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合肥の戦いと濡須口の戦い

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月14日

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合肥の戦いと濡須口の戦い

200年の官渡(かんと)の戦いを制した曹操は、その後袁紹(えんしょう)の息子たちを滅ぼし、207年までに河北を掌握し、群雄のなかで随一の実力を手にしました。曹操は次の目標を荊州、そして孫家(そんけ)の支配する呉(ご)と定めて南下を開始します。

この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の下にあった劉備は、荊州名士(めいし)の間で評価を高めていた諸葛亮(しょかつりょう)を陣営に迎えて天下三分を基本戦略と定め、まずは曹操の南下を撃退すべく、孫権(そんけん)との同盟を締結します。

ここに三国成立の契機となる赤壁(せきへき)の戦いを迎えます。

わずか800名で10万の孫権軍を撃退した名将・張遼。

【合肥の戦い】800の兵で10万の孫権軍を撃退した名将・張遼

劉備(りゅうび)と和解した孫権(そんけん)は、漢中(かんちゅう)に出陣中の曹操(そうそう)の留守を狙い、合肥(がっぴ)奪還に出陣します。

一方、10万の大軍に包囲された合肥を守る張遼(ちょうりょう)ら7000の将兵に対し、曹操は「張遼と李典(りてん)は出撃し、楽進(がくしん)は城を守れ」と指令を出していました。それを受けた張遼はわずか800の兵で孫権の陣営に夜襲をかけてかく乱し、孫権にあと一歩まで迫るほどの戦いを展開します。こうして孫権軍に一撃を加えた張遼らは、この後ひたすら守りを固めました。

孫権軍も攻めあぐねるうち、陣中に伝染病が広まり、ついに孫権は撤退します。こうして魏軍は合肥を守り切ったのです。

【合肥の戦い注目の武将】張遼とはどんな武将?

呂布に従って董卓に仕え、呂布滅亡後、曹操に仕えました。官渡の戦いの後には、袁家の残党制圧に貢献し、冷静な判断力と豪胆な決断力で武功を重ねた張遼は、赤壁の戦い後、呉との最前線にあたる合肥の守りを任され、最後まで守り抜きました。

【合肥の戦い】三国志演義では?

合肥の戦いの後、許へ戻った曹操は、左慈(さじ)と名乗る人物の幻術に翻弄され、占い師の管輅を招聘します。すると管輅は、魯粛の死と劉備の漢中侵攻を予測し、さらに曹操排除を狙うクーデター計画の存在を暗示しました。これを受けて、曹操は政変を未然に防いでいます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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