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豊田佐吉は織機を発明して飛躍

発明品を模索するなか、ある農家で手織り機を見て、その改良を思い立ちます。人力で行っている作業を、蒸気機関などの動力に切り替えることができれば、能率は大幅に向上すると考えたのです。当時、愛知県三河地方から静岡県西部にかけた一帯は綿花の一大栽培地で、紡績業が盛んでした。織機開発は、求められていたものだったのです。

豊田佐吉は、1890(明治23)年秋に「豊田式木製人力織機」を完成。翌年、24歳にして初の特許を取得します。豊田式木製人力織機は、それまで両手で織っていた手織り機を片手で織れるようにしたもので、動力式ではなかったものの、従来に比べて能率が4~5割向上していました。

そして、豊田佐吉の次の大きな発明は「豊田式糸繰返機(いとくりかえしき)」です。これは、紡いだ糸を織機のたて糸用に巻きかえるための機械で、手作業を動力で行えるようにした画期的なものでした。

この糸繰返機を製造、販売するために豊田代理店伊藤商(豊田商店)を設立すると、豊田佐吉はいよいよ本格的に動力式織機の開発にとりかかります。そして1896(明治29)年、日本初の動力式織機である豊田式汽力織機(きりょくしょっき)を完成。木鉄混製(もくてつこんせい)の構成とし、さまざまな部分を人力から動力に置き換えただけでなく、よこ糸が切れたら自動で停止する装置など、随所に豊田佐吉の新たなアイデアが反映されていました。

豊田佐吉は新型の織機を続々と発明

そして翌年、豊田商店の得意先である石川藤八(いしかわとうはち)と豊田佐吉は共同で知多郡乙川村(おっかわむら)(現・半田市)に乙川綿布合資会社を設立、日本初の国産動力機構による織布工場の操業を開始しました。

さらに2年後、三井物産の提案を受けて、合名会社井桁商会も設立しました。豊田佐吉は井桁商会の技師長となり、織機製作を指導しつつ、発明に専念できる環境が与えられました。しかし、不況の影響もあり、豊田佐吉はまもなく井桁商会を離れ、豊田商会で発明・研究を進めていくことになります。

その後、1903(明治36)年には世界初の無停止杼換式(むていしひがえしき)自動織機である豊田式鉄製自動織機(T式)を開発。ほかにも、豊田式三十八年式織機や三十九年式織機、環状織機……と、次々に発明していきました。

豊田佐吉が開発した織機の集大成「G型」

豊田佐吉の動力式織機に対する世間の評価が高まり、1907(明治40)年には東名阪の財界人から資金提供を受け、豊田商会を母体に「豊田式織機」が設立され、豊田佐吉は常務取締役技師長に就任。発明・研究に勤しみ16件の特許を取得しています。

しかしそのいっぽうで、会社の業績が不振に陥ると、発明重視の豊田佐吉とほかの経営陣のあいだに溝ができ、豊田佐吉は技師長を辞任することになります。

辞任後、米欧の視察旅行に出発した豊田佐吉は、現地の織機業者を見学し、自らの開発した自動織機への自信を深めました。帰国後、豊田紡織の設立、上海進出などを経て、1924(大正13)年には無停止杼換式豊田自動織機(G型)、通称G型自動織機を開発。

G型は豊田佐吉がこれまでに開発してきた織機の集大成ともいえるもので、生産性や品質において世界一の性能を発揮しました。当時世界の繊維業界の中心だった英国のプラット社もその優秀さに感心し、特許権の譲渡を申し入れてきたほどです。

このG型を製造するため、現在の豊田自動織機の前身、豊田自動織機製作所が刈谷町(現・刈谷市)に設立されたのは1926(大正15)年。以降、現在の刈谷市域には、豊田自動織機製作所の工場や関連企業が数多く設立されることとなります。

刈谷市内のおもなトヨタ関連企業

刈谷市内のおもなトヨタ関連企業

豊田自動織機のお膝元・刈谷市には、現在も同社のほかデンソー本社・工場のほかトヨタ車体、アイシン精機、愛知製鋼、ジェイテクトなどのトヨタグループ企業が数多く立地しています。

トヨタ自動車のお膝元は豊田市、ルーツは刈谷市

トヨタといえば日本で唯一企業名をとった市、豊田市を連想する人も多いでしょう。こちらは、1937(昭和12)年に豊田自動織機製作所から独立したトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)が、翌38(昭和13)年に挙母工場を建設したことから企業城下町として発展していきました。

自動車メーカーとしてのトヨタ自動車のお膝元が豊田市、そのルーツである豊田自動織機のお膝元が刈谷市、というわけです。

豊田佐吉は稀代の「発明王」

豊田佐吉は多くの企業設立で中心的な立場にありながら、経営者よりも発明家に徹した人物でした。豊田自動織機製造所の定款には、紡織機の製造・販売に加え「右(紡織機)に関する発明研究をなすこと」と明記されました。大正~昭和初期、発明と研究を目的とした会社は少なく、豊田佐吉の発明主義がここによく表れています。

死後、豊田佐吉の遺訓として社訓に制定された「豊田綱領」にも「研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし」という項目が存在しています。

なお、豊田佐吉が1930(昭和5)年に死去するまでに取得した特許は84件にのぼり、実用新案も合わせると100件超。豊田佐吉こそは稀代の「発明王」であったのです。

トヨタの経営に携わる利三郎と喜一郎

発明に生きた豊田佐吉に対し、経営に携わったのが娘婿である利三郎(りさぶろう)、そして長男の喜一郎(きいちろう)です。

とくに喜一郎は豊田佐吉の意向もあり、東京帝国大学法学部で学ぶなど経営者としてのキャリアを積んでいったが、豊田佐吉の血は争えず、発明家としての側面も大きかったのです。G型自動織機の発明には、喜一郎の功績が大きかったという話もあります。

喜一郎は、関東大震災(1923年)や世界恐慌(1929年)などの影響で不況に陥った綿業界(紡績事業)に鑑みて、経営の多角化に着手しました。

そのひとつとして1930(昭和5)年6月頃、綿糸生産工程の短縮・合理化を実現する「RI型ハイドラフト精紡機」を開発、発売。1933(昭和8)年には、豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設立。これがのちに独立してトヨタ自動車工業(1937年)となりますが、トヨタ初の量産乗用車であるAA型乗用車や、その試作であるA1型試作乗用車の開発においても、優秀な発明家にして経営者である喜一郎の存在は大きかったのです。

トヨタグループは「世界のトヨタ」へ

こうして、豊田佐吉が織機の発明において礎を築き、喜一郎をはじめとした後継者たちが発展させたことで、世界に冠たるトヨタグループへと成長していくのです。

※当欄では会社名につくべき「株式会社」の表記を割愛しています。ご了承ください。 

※当欄では会社名につくべき「株式会社」の表記を割愛しています。ご了承ください。

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