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北沢楽天の生い立ちと就職

生家は、大宮宿脇本陣・紀州鷹場本陣を代々務めてきた旧家でした。保次は、1876(明治9)年7月20日、神田駿河台(東京都千代田区神田)で北沢家の四男として生まれています。

1895(明治28)年、18歳になった彼は、横浜居留地で外国人向けの週刊英字新聞『ボックス・オブ・キュリオス』を発行していた新聞社に入社。同社でオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベルに師事し、西洋風のカリカチュア(誇張のある肖像画)を学びました。やがてナンキベルが日本を離れると、保次が同紙の挿絵・風刺画を担当するようになりました。

北沢楽天が描く『時事新報』の絵

北沢楽天の転機が訪れたのは、1899(明治32)年、22歳のときでした。福沢諭吉父子から誘われ、日刊紙『時事新報』を発行する時事新報社に入社。『時事新報』は福沢諭吉が創刊した新聞で、日本で初めて漫画を紙面に掲載していました。

保次の入社当時は今泉一瓢(いまいずみいっぴょう)が絵を描いていましたが、一瓢のあとを継いで北沢楽天が『時事新報』紙面で絵を描くようになりました。

当時の新聞紙面の漫画とは

この頃の新聞紙面に掲載されていた漫画は、新聞記事をわかりやすく伝えるための役割を担っており、現在一般的に流通しているようなページもののマンガではなく、政局や国際情勢を風刺するひとコマ漫画でした。なお、『時事新報』の時事漫画を手がける保次が、「楽天」のペンネームを使い始めたのは1903(明治36)年12月のことです。

「漫画」の語が用いられるようになったわけ

ちなみに、「漫画」という言葉を使った本を初めて世に出したのは今泉一瓢でした。横浜の外国人居留地で創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ』の影響で、風刺画は「ポンチ」もしくは「ポンチ画」と呼ばれていましたが、やがて粗製濫造の模倣品が氾濫して「ポンチ画」 という語が蔑称化していく過程において、それらと明確な差別化を図る意味で「漫画」の語が用いられるようになり、北沢楽天もその意を踏襲して「漫画」の語を用いています。

北沢楽天は漫画家を職業として確立した

『時事新報』で精力的に漫画を描いていた北沢楽天ですが、時勢的な制約を受ける仕事に満足できず、1905(明治38)年、日本初のフルカラー漫画雑誌『東京パック』(有楽社)をみずから創刊しました。誌名は、ナンキベルがアメリカで筆を奮っていた雑誌『パック』にちなんだものでした。楽天は、漫画家を職業として確立したことから、日本最初の職業漫画家ともいわれています。

北沢楽天は1907(明治40)年には大阪版の『贅六(ぜいろく)パック』を創刊。類似雑誌が各地で発行されるほど「パック」人気は高まり、滑稽なものをして「パックだね」といったり、「何が何してパックだね」という流行唄が歌われたりするほどでした。

北沢楽天が生んだ個性的なキャラクターたち

北沢楽天はその後『東京パック』を離れ、1912(明治45)年に『楽天パック』『家庭パック』 を相次いで創刊しましたが、2誌とも1〜2年で終刊。

すると『時事新報』へ復帰し、1921(大正10)年には時事新報日曜漫画付録『時事漫画』を創刊。「丁野抜作(ていのぬけさく) 」「とんだはね子」 「灰殻木戸郎(はいがらきどろう) 」といった個性的な人気キャラクターを世に送り出しました。

北沢楽天の作品が海外で高評価を得る

北沢楽天は1929(昭和4)年からヨーロッパ旅行に出かけ、旅先から旅行記の漫画を日本に送り、当時はまだめずらしかった外国のようすを日本へ伝えました。この頃、フランス大使の斡旋でパリで美術公募展に出品し、フランス教育功労賞を受章するなど、北沢楽天の作品は海外でも高く評価されたのです。

北沢楽天の晩年とその功績

晩年の北沢楽天は、1948(昭和23)年に大宮市盆栽町(さいたま市北区)に居を構え、自宅を「楽天居(らくてんきょ)」と称し、そこを終の棲家としました。北沢楽天は1955(昭和30)年に生涯を終えましたが、その翌年、大宮市の名誉市民第1号に選ばれました。

また、「楽天居」跡地には、大宮市立漫画会館が設立され、現在は「さいたま市立漫画会館」と名称を変え、楽天の功績を後世に伝えています。今や世界に名高い日本漫画の、その黎明期を支えた偉大な作家の足跡をぜひとも訪ねてみてください。

北沢楽天の晩年とその功績

「さいたま市立漫画会館」には北沢楽天のさまざまな作品や遺品が展示される

さいたま市立漫画会館

住所
埼玉県さいたま市北区盆栽町150
交通
東武アーバンパークライン大宮公園駅から徒歩5分
料金
無料

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