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生野銀山の歴史~国の財政を支えた銀の存在の謎に迫る!~ 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

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生野銀山の歴史~国の財政を支えた銀の存在の謎に迫る!~

江戸時代には幕府、明治以降は政府直轄となり、財政を支えた生野銀山。では、生野の地下に銀が眠っていた理由を地層からアプローチしてみましょう。

【生野銀山の歴史】平安時代に発見され、時代の財政を支えた銀

朝来(あさご)市には、巨大な近代化産業遺産が保存されています。戦国時代から近代まで大量の銀を産出しつづけた生野銀山です。

生野で最初に銀が発見されたのは807年、史実に登場するのは室町年間の1542年と伝えられています。その後、織田信長や豊臣秀吉が直轄鉱山としました。江戸時代には幕府の直轄地となり、財政を支えました。

明治以降も政府直轄となり、貴重な国家財源となりました。1889年に宮内省所管の皇室財産となり、1896年に三菱合資会社に払い下げられました。明治政府による民活導入プロジェクトです。

生野銀山の歴史:明治以降は民間経営で大鉱山になるも資源枯渇で閉山

三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働しました。しかし、やがて資源減少による鉱石の品質の悪化が発生。さらに坑道延長が長くなり採掘コストが増加したことに加え、掘削中に岩盤の一部が崩れるようになったことから1973年に閉山しました。

生野銀山の歴史:閉山後は観光地として整備

閉山以降は、官民協働で鉱山資源を生かした地域観光開発に着手。鉱山跡地は現在、観光坑道の金香瀬(かながせ)坑道や坑内展示施設、資料館など観光施設として運営されています。

生野と姫路港をつないだ道

1876年から1920年まで、生野銀山と飾磨津(しかまつ)(現在の姫路港)をつなぐ約49kmの産業道路がありました。生野鉱山寮馬車道、通称「銀の馬車道」です。銀山を国有化した明治政府が、生野から姫路に資材や銀を運ぶために建設しました。馬車がスムーズに走行できるよう、地盤や道幅などさまざまな工夫をほどこして整備しました。日本初の高速産業道路といえます。

史跡・生野銀山と生野鉱物館

住所
兵庫県朝来市生野町小野33-5
交通
JR播但線生野駅から神姫グリーンバス喜楽苑行きで10分、生野銀山口下車、徒歩10分
料金
入館料=大人900円、中・高校生600円、小学生400円/生野鉱物館入館料=100円/(15名以上の団体は10%割引、50名以上の団体は15%割引)
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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