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浅間山の大噴火が天明の大飢饉の一因!?溶岩の絶景の裏には歴史的犠牲があった

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月22日

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浅間山の大噴火が天明の大飢饉の一因!?溶岩の絶景の裏には歴史的犠牲があった

浅間山と溶岩が織りなす雄壮な風景が広がる嬬恋村。
しかし、この絶景をつくった天明の大噴火は、土石流だけでなく大飢饉につながる気候不順も起こしていました。

浅間山の大噴火とその被害

上毛かるたにも詠まれている浅間山は、群馬と長野の県境にそびえる標高2568mの活火山

幾度となく噴火を繰り返している山ですが、そのうち最も時代が新しい大規模な噴火が天明3(1783)年の大噴火です。その勢いはすさまじく、火口から勢いよく火炎を吹き上げ、猛火が山を焼きました。当時の地元の人たちは、「突然鬼が暴れて、真っ赤な舌を出して襲ってきた」と表現しており、驚愕の光景が目に浮かびます。

このとき流れ出た大量の土砂は猛スピードで広がり、火口から約12km離れた鎌原(かんばら)村(現・嬬恋村)では高台にあった観音堂に逃げ込んだ人は助かりましたが、逃げ遅れた多くの村人が命を落としました。これは村の人口570人のうち、477人が土石流の犠牲になるという壊滅的な被害でした。後に噴火遺跡の発掘現場から発見された遺体からも、当時の脅威がうかがえます。

日本のポンペイと呼ばれる鎌原地区

ちなみに、イタリアにも火山災害により埋没した、有名な古代都市のポンペイ遺跡がありますが、同様に火山災害で埋もれた村が遺跡として残る鎌原地区は「日本のポンペイ」と称されることも多くなっています。

その後も鎌原村を襲った土砂は泥流となって50以上の村を次々と飲み込み、1500人以上の尊い命を奪いました。

浅間山大噴火の火山灰による被害

噴火による火山灰も、大きな被害を及ぼしました。降灰(こうかい)は強風に乗って、江戸を含む関東一円のほか、東北地方まで広範囲に及びました。とくに降灰のひどかった群馬県東南部一帯は、農作物に大きな打撃を受けたといいます。

浅間山の大噴火(天明の大噴火)の被害分布

浅間山の大噴火(天明の大噴火)の被害分布
内閣府『報告書(1783 天明浅間山噴火)』を元に作成

天明3(1783)年の新暦5月9日に噴火が始まり、7月17日には北方向に軽石が降下。7月27~29日には火口から北東20km地点での軽石の降下が確認されているほか、300km以上離れた東北地方でも火山灰の降下記録が残っています。

8月2日夜以降の噴火がとくに激しく、8月5日朝方まで続きました。土石流は吾妻川に注ぎ込み、泥流となって利根川を流下し、銚子や江戸にまで被害を及ぼしました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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