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四ツ木橋ができる前 農村から荒川放水路の開削で一変した風景

話は明治時代にさかのぼります。
当時の荒川は、現在の隅田川を指していました(荒川下流域の別名が隅田川)。
この頃、荒川の度重なる洪水は、毎度大きな被害をもたらしていました。特に、明治以降の近代化により相次いで建設された工場への被害は深刻で、経済活動に大きな影響を与えていたようです。

そのため、荒川の治水が急務となります。その決定打となったのが、1910(明治43)年の大水害でした。これにより、政府は荒川の洪水対策に大きく動き出します。そこで策定されたのが「荒川放水路」です。

その計画とは、岩淵水門(北区)から新ルートを開削し、都心部を迂回させて中川河口(江戸川区)へ流すというもの。延長22キロ、鉄道橋4本、道路橋13本、土地買収11平方キロ、移転戸数1300軒、という壮大なものでした。

1909(明治42)年測図 1/20000地形図「東京東部」/「今昔マップ」より

当時の四ツ木橋周辺の地図を見てみましょう。工事が始まる少し前に測量されたものです。ご覧のように、田園地帯に集落が点在する、ごく普通の農村地帯でした。

1917(大正6)年測図 1/25000地形図「東京首部」/「今昔マップ」より

同じ位置の、8年後に測図された地図です。風景が一変しています。
荒川放水路の形が明確に表れてきました。まだ水は流れていません。おそらく用地買収と住民移転が大方完了し、土木工事が開始された頃でしょう。そんな中で、寺院が孤島のように残っているのがおわかりでしょうか。このお寺「木下川薬師(浄光寺)」は、1919年に少し下流(葛飾区側)に移転しています。

1911年着工された事業は、途中、風水害や関東大震災(1923年)の被害などもあって難航しました。およそ20年の歳月を費やし、1930(昭和5)年ようやく完成となります。その後も、河川改修や高潮堤防の建設などの補強が行われ、現在に至っています。

四ツ木橋の移り変わりは、少し複雑でした

1930(昭和5)年測図 1/25000地形図「東京首部」/「今昔マップ」より

ここに最初の「四ツ木橋」が誕生したのは、1922(大正11)年のことです。

荒川放水路の堤防建設に合わせて架けられた橋で、鉄筋コンクリート橋脚をもつ、木製の橋でした。同時に、京成電気軌道(現・京成電鉄)の線路も、川に直角に交わるように敷きなおされています。鉄道橋の完成は、翌年1923年のことでした。このとき、橋の両端には「四ツ木」「荒川」という二つの駅が開業しました。
またこの頃、少し下流には「江戸川水道橋」という水道専用の橋も完成しています。

1965(昭和40)年改測 1/25000地形図「東京首部」/「今昔マップ」より

1952(昭和27)年になると、初代四ツ木橋のおよそ500m上流にある国道6号線に、新たな橋が開通します。これが「新四ツ木橋」です。この時点では、初代四ツ木橋はそのまま残っていました。最初にお見せした地図は、この時期のものです。この頃の国土地理院地形図(上記参照)を見ると、鉄道橋を挟んで3本の橋が共存しています。

1984(昭和59)年修正 1/25000地形図「東京首部」/「今昔マップ」より

その後の1969年、古くなった初代四ツ木橋を建替えた「木根川橋」(位置は100mほど下流)が完成します。
更に1973年、「新四ツ木橋」(二代目)が完成しました。国道6号線の渋滞解消を目的としたもので、建設当時は「新々四ツ木橋」とも呼ばれていたそうです。
この橋の完成により、初代「新四ツ木橋」は「四ツ木橋」に改名されます。
なお、この頃には、木根川橋の少し下流にあった江戸川水道橋は、役目を終え解体されています。

少しややこしいので、今一度整理しましょう。
■1922年開通 四ツ木橋(~1969年解体)
■1952年開通 (初代)新四ツ木橋(~1973年)⇒ (二代目)四ツ木橋(1973年~現在)
■1973年開通 (二代目)新四ツ木橋(~現在)

冒頭の地図でお見せした2つの橋。名称は現在と同じですが、その位置関係が大きく変わっているのは、このような経緯によるものです。
将来、架け替えがあるとすれば、またこの橋の複雑な歴史が、書き加えられていくことになりますね。

現在の四ツ木橋周辺はどうなった? 放水路で分断された古道の名残

現在の四ツ木橋周辺はどうなった? 放水路で分断された古道の名残
2022年昭文社刊行「街の達人全東京」より

こちらは、四ツ木橋周辺の現在です。葛飾区側には、首都高速道路中央環状線が開通していますが、広々とした河川敷の風景は変わらないようです。現在この荒川放水路は、正式に「荒川」と呼称されています。
京成電車の線路は高架化(2001年完了)されました。開業当時の橋桁が低く、船舶の航行に支障があったことが主な理由だったようです。これと前後して、荒川駅は付近の町名に合わせて「八広駅」と改名されています。もしかすると「墨田区」にあるのに「荒川区」の駅だと誤解されることがあったから、かもしれません。

左:1909(明治42)年測図 1/20000地形図「東京東部」 「今昔マップ」より

もう一図お見せしましょう。こちらは明治と現在の地図を並べたもの。堤防の両端部で途切れている道を、赤線で結んでみました。
すると、ちょうど良い具合につながります。放水路の開削により分断された古い道の名残が、地図から読み取れるのではないでしょうか。

普段見ている川や橋にも、様々な過去が眠っています。古地図を持って時間旅行にでかけませんか

さて、今回は1968年の古地図から、ある橋の歴史を紐解いてみました。それをたどると、そこには壮大な治水工事と、複雑な名称の変遷がありました。
みなさんが普段見慣れている川や橋にも、現在に至るまでには、様々な歴史があるはずです。「ちょっと昔」地図から、それを見つけに時空の旅に出かけてみては如何でしょうか。

【参考にした主な資料:国土交通省荒川下流河川事務所HP、葛飾区史(葛飾区役所)HP、墨田区役所HP】

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昭文社が刊行してきた都市地図には、道路や鉄道、河川など街の骨格となる情報はもちろん、町丁名や地番、学校・役場などの公共的施設から、住宅団地やアパート、スーパー・デパート、工場や倉庫などの民間施設まで豊富に掲載してきました。収録内容も時代とともに変化するなど、地図はその時々の景観や暮らしが垣間見える「街の記憶」でもあります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。

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