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近鉄の草創期

その前身は、明治43(1910)年に設立された大阪電気軌道(設立後1か月は「奈良軌道」の名称/以下、大軌)で、大阪と奈良を結ぶ目的で大阪の代議士や沿線の地主らによって作られた会社です。

実は、今でこそ名の知られる大手ですが、創業当初は、会社の存続が危ぶまれるほどの財政難でした。

近鉄の困難の時代

大軌は在阪5大私鉄のなかで最も後発。大阪~奈良には、関西鉄道の関西本線(現在のJR関西本線)と片町線(現在のJR片町線)がすでに開通していました。

ところがいずれも、大阪と奈良の間にある生駒山を迂回するルートのため、大軌は生駒山をトンネルで貫くルートの建設に勝機を見出します。しかしながら、湧水や地質に悩まされトンネル掘削工事は難航。工期は伸び、上本町(うえほんまち)駅~奈良駅の工費は当初の予算570万円を上回り最終的に787万円まで膨れ上がりました。

苦労しながらも独自路線を貫く

大正3(1914)年にようやくトンネルが完成し、同年4月30日に上本町(現在の大阪上本町)駅~奈良(現在の近鉄奈良)駅の営業を開始。関西本線より運行時間を25分も短縮したものの、乗客の大半は行楽客であったため、雨の日やオフシーズンは客足が伸びず、収益は予想よりも下回ってしまいます。工費の支払いにも困り、上層部は金策に追われるはめになってしまいました。

近鉄の成長期

そこで大正4(1915)年、株主や経営陣から協議委員を選出し会社更生に乗り出し、なんとか債務整理を完了。その後は、沿線の宅地開発や観光開発に注力して徐々に乗客数を増やしました

さらに積極的に路線網の拡大を図り、さまざまな鉄道会社と合併を行いました。昭和19(1944)年には南海鉄道(現在の南海電鉄)と合併(のちに分離)し、近畿日本鉄道となりました。

近鉄合併の変遷

近鉄合併の変遷
近畿日本鉄道提供の資料を元に作成

他の鉄道会社を合併吸収しながら大きくなるなかで、静岡、東京まで延伸しようとする構想もあったようです。

近鉄の現在

戦後も他の鉄道会社とさらなる合併を続け、最大の路線延長を誇るまでに成長。一方で、生駒山上遊園地などのレジャー開発にも取り組み、2014年には高さ日本一の複合商業ビル「あべのハルカス」を開業しました。

創業当初は倒産寸前だった会社とは思えない勢いで躍進を続けています。

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見どころ―目次より抜粋

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・人々の営みに密接してきた 生駒山がもたらした恩恵とは?
・大和平野を潤す大動脈 吉野川分水は300年越しに完成 ほか

Part.2 奈良を駆ける交通網
・生駒市と東大阪市にまたがる 暗峠の急勾配は法令地オーバー
・営業期間わずか9年間! 大仏鉄道を阻んだ急勾配
・3度の変更の末、駅開業が転がりこんだ!?なぜ、王寺町が鉄道の町になった? ほか

Part.3 奈良で動いた歴史の瞬間
・古墳の密集地帯・奈良盆地 なぜ古墳が造られなくなった?
・大化の改新だけではない! 中大兄皇子が変えた時間の概念
・秀吉が催した5000人規模の大宴会 吉野の花見で笑いをとった伊達政宗 ほか

Part.4 奈良で生まれた産業や文化
・全国で2校の国立女子大学 奈良女子大学設立の背景には岡倉天心
・古くから言い伝えがあった 天川村と手塚治虫作『火の鳥』の関係は?
・実は奈良盆地の気候が肝! 広陵町が靴下生産量日本一の理由 ほか

<コラム>
データで分かる全39市町村 人口、農業・水産業、観光
吉田初三郎が描いた奈良の鳥瞰図
映画・ドラマ・小説…… 奈良県とエンタメ作品

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