フリーワード検索

ジャンルから探す

トップ > カルチャー >  北海道・東北 > 北海道 >

樺太鉄道と北海道を結ぶ稚泊航路の就航

稚内と大泊の間には、1923(大正12)年に鉄道省の稚泊連絡船(稚泊航路)が開設されました。船舶は青函航路から壱岐丸、関釜航路から対馬丸を転属させ、冬期の流氷のため砕氷船に改造し就航。のちには亜庭丸、宗谷丸も新造されました。

当初、大泊に桟橋はなかったのですがのちに設けられ、大泊港駅が開業。稚内も駅の北側に稚内桟橋駅が延伸開して大きな防波堤もつくられました。

樺太鉄道の廃止と稚泊連絡船の途絶

樺太の鉄道は昭和になり、東西連絡路線の豊真(ほうしん)線や最大の私鉄、樺太鉄道などが開業しましたが、1945(昭和20)年の終戦後に樺太の鉄道は旧ソ連に接収され、稚泊連絡船も運行が途絶え、稚内桟橋駅も休止。翌年に樺太鉄道局が廃止されました。

樺太鉄道廃止に伴って急きょ建設された宗谷本線

いっぽう宗谷本線は、そんな樺太と本土を結ぶことを急務として建設された路線でした。始まりは北海道官設鉄道による1898(明治 31)年の旭川~永山間ですが、1912(大正元)年に官設鉄道の宗谷線として音威子府(おといねっぷ)までを開業し、1922(大正11)年に浜頓別(はまとんべつ)経由で稚内(現・南稚内)まで延伸。現在線は、天塩線として1926(大正15)年に稚内まで開業。1928(昭和3)年に稚内港(現・稚内)まで全通したものです。

宗谷本線の路線図

宗谷本線の路線図

宗谷本線は、旭川駅を起点に名寄駅などを経由して、北方領土を除く国内最北端の地である稚内駅までの259.4㎞を51の旅客駅で結んでいます。もともと樺太への連絡線として建設され、終戦までは大泊(現・コルサコフ)への鉄道連絡船(稚泊航路)が就航していました。

宗谷本線の優等列車「宗谷」

優等列車では、戦前はエースナンバー1列車・2列車が2等寝台車連結で函館~稚内港間に運転され栄華を極め、戦後はキハ56系気動車を長く連ねた準急「宗谷」が1960(昭和35)年より運転開始。現在も特急「宗谷」として愛称を固守し、特急 「サロベツ」とともに最北をいく特急列車として札幌~稚内間で運転され続けています。

『北海道のトリセツ』好評発売中!

地形、交通、歴史、産業…あらゆる角度から北海道を分析!地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。北海道の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載です!

『北海道のトリセツ』見どころ―目次より抜粋

Part.1 地図で読み解く北海道の大地
地球規模のプレート運動が北海道の大地と山々をつくる!
むかわ町穂別で発見された新種恐竜カムイサウルスとは!?
国内最大の湿地・釧路湿原が3000年以上も陸地化しない謎 ほか

Part.2 北海道を駆け抜ける鉄道網
日本初の軌道交通は茅沼を走り手宮~札幌に道内初の本格鉄道
ゴムタイヤで性能は上々 札幌市営地下鉄3路線の実力
樺太の鉄道と稚泊連絡船 最北の鉄路・宗谷本線 ほか

Part.3 北海道で動いた歴史の瞬間
4000年前の縄文時代に築かれたストーンサークルとは何か?
海を駆け巡る北の民アイヌ 樺太進出を狙い元と戦う!
松前藩が誕生し支配体制が確立! 南下を狙うロシアとのにらみあい
土方歳三の戦死で戊辰戦争終結! 旧幕府軍が描いた蝦夷共和国とは ほか

Part.4 北海道で育まれた産業や文化
150年で200万都市へ成長! 道都・札幌が大発展した理由とは?
北海道らしい大規模農業は開拓時代に黒田清隆が提唱した!
サッポロビールにニッカウヰスキー 北の大地で銘酒が誕生するまで ほか

<コラム>
データで分かる全189市区町村 人口、所得、農業・漁業
初三郎が描いた北海道の鳥瞰図
過酷な気候と労働が生んだ 小林多喜二のプロレタリア文学

『北海道のトリセツ』を購入するならこちら

リンク先での売上の一部が当サイトに還元される場合があります。
1 2

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー >  北海道・東北 > 北海道 >

この記事に関連するタグ