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入鹿池の歴史:なぜつくられたのか?

江戸時代初期、尾張北部では新田開発が盛んになりました。しかし、尾張東北部の小牧原一帯は台地上にあるため、河川からの取水が難しくなっていました。小牧台地は水不足のせいで、新田開発の流れから取り残されていたのです。

この台地で新田を開発するには、水源となるため池が必要でした。

入鹿池の歴史:造成に尽力した入鹿六人衆

このため池の造成に尽力したのが入鹿六人衆(江崎善左衛門(えざきぜんざえもん)、落合新八郎(おちあいしんぱちろう)、鈴木久兵衛(すずききゅうべえ)、鈴木作右衛門(さくえもん)、丹羽又助(にわまたすけ)、船橋七兵衛(ふなばししちべえ))です。彼らはため池をつくる場所を選定し、丹羽郡(にわぐん)入鹿村に白羽の矢を立てました。

入鹿村は尾張富士、羽黒山、奥入鹿山、大山といった山々に囲まれた谷間に位置し、諸々の河川がこの谷間に注ぎ込んでは合流し、五条川として南側に流れ出ていました。この南側にある出口を「銚子(ちょうし)の口」と呼びます。

入鹿六人衆は、「銚子の口」をせき止めれば、入鹿村自体を巨大なため池にできると考えたわけです。

入鹿池は尾張藩の後押しを得て完成

そして1628(寛永5)年、ため池築造を尾張藩に願い出ました。すると、時の藩主・徳川義直はその有用性を認め、藩の開拓事業として行うことを決めたのです。

ため池の築造は、入鹿村の住民40戸あまりに立ち退き料を支払って退去させることから始まりました。入鹿村の住民たちの移住先は「入鹿出新田(いるかでしんでん)」と呼ばれ、現在も「小牧市入鹿出新田」のように地名が残っています。

ともあれ、入鹿村住民の退去後、1632(寛永9)年から入鹿池の築造工事が開始され、翌1633(寛永10)年に完成しました。

入鹿池の歴史:完成後は新田開発が急速に進んだ

さて、入鹿池はできあがったものの、それまで未耕作だった小牧台地には荒れ地が広がっていました。そこで尾張藩は、入鹿六人衆を新田頭(しんでんがしら)に命じ、新田開発を推進しました。

このとき尾張藩は「給人自分起新田」という方針を打ち出します。要するに「割り当てられた土地を自分で耕したら、自分のものになる」というものです。かくして入鹿池周辺の新田開発は急ピッチで進められ、春日井と丹羽の2郡には6800石あまりの新田が造成されました。

その後、わずか10年ほどで入鹿用水は水不足になり、さらに取水用水を設けていることからも、尾張北部の新田開発が予想以上のハイペースで進んだことがわかります。

なお、入鹿六人衆は入鹿池築造と新田開発の功から名字帯刀が許され、新田頭の役職は世襲となりました。

入鹿池の現在の姿

入鹿池は完成から一度も決壊しませんでしたが、1868(明治元)年の大雨ではついに決壊(入鹿切れ)。死者900人超の被害を出しました。

1977(昭和52)年には入鹿池での防災ダム事業計画が始まり、現在、入鹿池は防災ダムとして機能しています。

木曽川に築堤された「御囲堤(おかこいづつみ)」とは?

御囲堤とは、木曽川の左岸に築造された堤防のことです。堤防の高さは約10~16mで、全長は犬山から河口付近の弥富まで約50㎞にわたり、多くが現存しています。

この長大な堤防は1608(慶長13)年、徳川家康の命令を受けた伊奈忠次(いなただつぐ)(備前守)によって着工され、翌年に完成をみました。

幕府は「(対岸の)美濃の堤防は尾張側より三尺(約1m)低くすること」と命じたことから、美濃側では水害が頻発しましたが、濃尾平野は河川の氾濫から守られました。

この「尾張ファースト」ともいうべき発想は、御囲堤がただの灌漑事業ではなく、軍事的な役割も担っていたことに起因します。まだ大坂には豊臣秀頼が健在の時代、西国の親豊臣派が東進してきた場合には、尾張で敵を食い止めなければなりません。だからこそ家康は九男・義直を尾張藩主とし、有事には御囲堤を要塞線として活用することも想定していたのです。

木曽川に築堤された「御囲堤(おかこいづつみ)」とは?

御囲堤と木曽川の概略図。木曽川から分かれ濃尾平野に流れ込んでいた中小の河川が閉め切られ、尾張での洪水の危険度を低減。同時に「木曽川を使った木材(木曽檜)の大量運搬」を可能にしました。

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・1500万年前の奥三河には富士山級の大火山があった!
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・西南日本を分断する大断層、中央構造線が奥三河に露出!
・知多半島の南部の地層で産する、美しく多様な深海生物化石群
・県内の死者予測は2.9万人、南海トラフ地震とは何か?
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・・などなど愛知のダイナミックな自然のポイントを解説。

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・世界初のビュフェもあった幻の関西鉄道はどんな路線?
・名鉄名古屋本線はかつて名古屋を境に東西で別の私鉄?
・新幹線に負けない魅力満載!進化を続ける近鉄名阪特急
・国産初の超低床路面電車!リトルダンサーが走る豊橋鉄道
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・大集落の朝日遺跡が教える縄文から弥生への移り変わり
・東海地方最大の前方後円墳、断夫山古墳が示唆するもの
・須恵器の猿投窯に始まり中世に発展した愛知の窯業
・応仁の乱の発端となった大激戦は尾張と三河の守護職争い!?
・信長が少ない軍勢で挑んだ桶狭間の戦い勝利の裏側
・家康後の岡崎城主・田中吉政が築いた岡崎二十七曲りとは?
・都市ごと清洲から名古屋へ移転した清洲越えがすごい!
・廃藩置県後の県域には12県、愛知県はどのようにして誕生?

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