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宿場町の役割は街道の拠点

宿場とは、宿、宿駅とも呼ばれた街道を旅する人を宿屋に泊めたり、休ませたりする街道の拠点のことです。

江戸時代になって、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や書状を、人馬を交替して次の宿場まで運ぶことが義務づけられると、これが宿場のもっとも重要な業務になっていきました。宿場ごとに乗り継ぐ馬を伝馬と呼び、この制度を宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)といいます。

宿場町の諸施設と宿場の人々のくらし

宿場町には、大名や公家、勅使、旗本、役人などが宿泊する本陣や脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠(はたご)といった宿泊施設とともに、伝馬や飛脚による公用の荷物の継ぎ立て業務を行う問屋場が置かれていました。

人や馬にかかる費用は宿場の町人や周辺農民の負担となりましたが、その代わりに租税が免除され、宿泊業や旅人の荷物運びによって一定の収入を得ることができたといいます。

宿場町の発展と参勤交代による東海道

1604(慶長9)年には主要街道に一里塚が設置され、大きな河川に渡船場や川越がつくられました。1635(寛永12)年、三代将軍家光によって参勤交代が義務づけられると、街道は大名の行き来により、いっそう賑わうようになり、宿場には商人や職人などが定住し、次第に都市の様相を呈するようになっていきました。

東海道の9つの宿場町(神奈川県域)

東海道53の宿場(東海道五十三次)のうち神奈川県域にあったのは、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根の9つ。

これらの宿場は、街道整備が始まった1601年にすべて設置されたのではありません。徳川氏発給の伝馬手形によると、1596(慶長元)年の時点で神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原の6宿が成立していた模様です。

宿場と宿場の距離が長い場所や峠越え、川越えがある難所には休憩所として「間の宿(あいのしゅく)」という施設が置かれました。神奈川県域では藤沢~平塚間の茅ヶ崎、大磯~小田原間の二宮、箱根にある畑宿が該当します。

【東海道の宿場町①】川崎宿

江戸から六郷川(ろくごうがわ)(多摩川)を渡ったところにある川崎宿は、品川宿に次ぐ東海道2番目の宿場ですが、その成立は遅く1623(元和9)年。それ以前、品川~神奈川宿の伝馬継ぎ立てが往復10里(約40キロ)におよび負担が大きかったため、両宿が幕府に請願し、中間点にある川崎に宿場が新設されたのでした。

ピークの天保期には旅籠の数は72軒に達し、神奈川県下9宿のうち3番目の多さを誇りました。 最大規模の旅籠だった万年屋は、幕末にアメリカ駐日総領事ハリスが宿泊したことでも知られています。

【東海道の宿場町②】神奈川宿

神奈川宿は川崎宿から約10㎞、神奈川湊と呼ばれる江戸湾の入海に面し、内陸と海をつなぐ交通・物流の要所として発達しました。この宿場名が、神奈川の県名の由来です。

江戸時代初期には、神奈川宿の街道沿いに徳川将軍家の宿泊施設である神奈川御殿が置かれ、将軍の鷹狩や宿泊に利用されました。

神奈川宿は、神奈川領・小机(こづくえ)領・稲毛領など、江戸西南部の幕府直轄地を管轄する神奈川陣屋が置かれた政治拠点でもあり、幕末には数々の寺にオランダ、イギリス、フランス、アメリカなどの領事館が置かれました。

【東海道の宿場町③】保土ヶ谷宿

保土ヶ谷宿は、戸塚宿とともに江戸から西へ向かう旅人の最初の宿泊地となることが多くありました。この宿は、神奈川宿とともに神奈川湊の荷揚げ場として、また、各地の主要都市を結ぶ物流の拠点として大いに栄えました。

【東海道の宿場町④】戸塚宿

戸塚宿は、1843(天保14)の記録によれば、大小75の旅籠がありました。これは神奈川県下の宿場では小田原に次ぐ2番目の規模です。

一般の旅人が宿泊する旅籠とは別に本陣が2軒、脇本陣が3軒あり、そのひとつの内田本陣は、間口18間(約33m)、奥行14間(約25m)、畳数は152畳あったといいます。

【東海道の宿場町⑤】藤沢宿

藤沢宿があったのは、現在の小田急線・藤沢本町駅周辺。八王子道、鎌倉道などの街道との分岐点で、戦国時代から北条氏が伝馬を置き、交通の要所でした。

1596(慶長元)年には、徳川将軍家の宿泊施設・藤沢御殿が築かれ、江戸時代中期以降は大山詣りや江の島詣りの旅人の拠点となりました。

【東海道の宿場町⑥】平塚宿

続く平塚宿は、北条氏が城郭を築いたことで発達した宿場。相模川を使った物資の集散地であり、中原往還(街道)や八王子道が走る交通の要所として栄えました。旅人には、次の大磯宿との距離が約3㎞と短いため、おもに休憩所として利用されました。

【東海道の宿場町⑦】大磯宿

大磯宿は、次の小田原宿との間に酒匂川の渡しがあったため、江戸からの旅人は小田原まで足を延ばし、逆に箱根を越えてきた旅人は手前の小田原で宿泊したため、比較的小規模な宿場でした。

【東海道の宿場町⑧】小田原宿

小田原宿は、北条氏の城下町として栄え、箱根関所に近いことから本陣4軒、脇本陣4軒という東海道最大級の規模を誇っていました。

江戸時代は譜代大名・大久保氏が藩主を務め、関東の入り口を守る要塞都市としても機能。この地域は大地震が繰り返し発生し、家屋倒壊、火災、山崩れ、津波などの被害に見舞われました。その都度復興を遂げてきたことが、小田原宿の重要性を雄弁に語っています。

【東海道の宿場町⑨】箱根宿

神奈川県域最後の箱根宿は、山を切り拓き1618(元和4)年に設置されました。その際、小田原宿や三島宿の住民を強制的に移住させたといわれています(箱根関所は翌年設置とされています)。

「箱根関所」は峠越えより厳しい?

「箱根関所」は峠越えより厳しい?
箱根関所大番所

箱根関所は箱根町断層という断層上にあり、片側は急な崖、もう片側は芦ノ湖。平坦な部分はわずかしかなく、ほかのルートを辿ることは難しい地形につくられていました。

厳しく取り締まった「入鉄砲出女」の出女とは、江戸から京都方面に向かう女性のこと。江戸に人質として住まわせていた諸大名の妻女が脱出するのを防ぐため、女性は改め婆(人見女)に取り調べられ、幕府発行の手形をもっていなければ通れませんでした。その半面、男性は不審人物でなければ手形なしでも通行できたといわれています。

また、箱根には近隣に「裏関所」と呼ばれる関所が5カ所あり、その地域住民以外は出入りできなくなっていました。箱根は地域全体で関所を守っていたのです。

「箱根関所」は峠越えより厳しい?

箱根関所跡にある「箱根関所史料館」

東海道は日本の発展を支えた

このように神奈川県域における東海道は、江戸時代から現代に至るまで、日本の発展を支えた随一の街道だったのです。

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