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日本のお城と武将たち~名城はいかにして築かれ落城したか~

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月26日

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日本のお城と武将たち~名城はいかにして築かれ落城したか~

中世から戦国時代にかけて数多くつくられた日本のお城。ピーク時には数万の城があったといいます。
日本のお城は、単に居住するだけでなく、戦時の防護という役割が強く、そのため城と運命をともにした武将も城の数以上に存在します。
ここでは、歴史の舞台となった日本のお城のと、お城と関わりをもった武将たちをさまざまな角度から紹介します。

かつての姿を守りしっかり天守閣を施しているお城から、もはや形を残さずわずかに石垣だけ残す城、完全に喪失したのち現代に再建された城など、歴史を築いた日本のお城の物語を見てみましょう。

【日本のお城と武将①:静岡県】小田原城と後北条氏

【日本のお城と武将①:静岡県】小田原城と後北条氏

後北条氏は小田原城を拠点として、またたく間に勢力を拡大していきました。
後北条氏独自の支配体制と、難攻不落と謳われた小田原城の真の姿とはどんなものだったのでしょうか?

小田原城は後北条氏に支配される以前は大森氏の拠点だった

小田原市城内に建つ小田原城は、市のシンボルとして広く認知されていますが、もともとは現在とは異なる場所に存在していました。現在の場所からJRの線路を挟んだ西側、静岡県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)がかつての所在地です。当時の小田原城を拠点としていたのは、扇谷上杉家の家臣・大森氏です。

後北条氏による小田原城の整備・改修

1495(明応4)年、伊豆国を支配していた伊勢盛時(のちの北条早雲)が大森氏から小田原城を奪取しました。
小田原城は後北条氏によってたびたび整備・改修され、後北条氏は北条早雲の死後に韮山城(にらやまじょう)(静岡県伊豆の国市韮山)から小田原城に本拠を移しました。

豊臣秀吉と敵対するようになると、後北条氏は長大な外郭を築いて小田原城下を取り囲みました。これを総構(そうがまえ)といいます。

山側は斜面に沿って空堀を掘り、その残土で土塁を築き、その外郭の総延長は9㎞にも及びました。この総構により、小田原城は並の軍勢では包囲できないほど広大な規模となり、仮に包囲されたとしても、総構の内部に城下町がそっくり囲われているから自給自足ができ、長期の籠城にも対応できるようになったのです。

まさしく、小田原城は難攻不落の城でした。

国土地理院標準地図(タイル)基図にして、小田原市の各種資料などを元に作成

小田原城下の領民らを守るべく、後北条氏が築いた堀や土塁による総構。その全長は約9㎞に及びます(図中、オレンジ色の線)。山側の斜面に堀をつくり、掘り出した残土などを使って土塁を築きました(図中、水色の線は現存する土塁・土塁跡)。堀や土塁が、城下をぐるりと取り囲んでいるのがわかります。

小田原城ー難攻不落の城と豊臣秀吉による石垣山一夜城

小田原城ー難攻不落の城と豊臣秀吉による石垣山一夜城

後北条氏が版図を拡大すると、関東の旧勢力はいっせいに反発しました。しかし、後北条氏の勢いを止めることはできず、関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)は敗北し、越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼って落ち延びました。かくして上杉謙信は、関東への出兵を繰り返すようになります。

小田原城への侵攻①:上杉謙信
1561年、関東の諸将を糾合した上杉謙信は、およそ10万ともいわれる軍勢を率い、小田原城を包囲しました。なお、この戦いの最中、上杉謙信は鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)で上杉の家督と関東管領職を継承し、名乗りを上杉政虎(まさとら)に改めています(のちに出家して謙信)。

この戦いは長期化し、結局、上杉軍は小田原城を落とすことはできずに撤退していったのです。

小田原城への侵攻②:武田信玄
また、小田原城は1569年には武田信玄の来攻を受けました。駿河を制圧した信玄は、その勢いのまま相模まで侵攻し、小田原城を包囲したのです。
このときは示威行為だったのか、すぐに包囲を解いて撤退していきました。

小田原城への侵攻③:豊臣秀吉
後北条氏の小田原城はまさしく難攻不落でしたが、そんな小田原城が落城するのは1590年。関白となった豊臣秀吉が、天下統一の仕上げとして、後北条氏との戦端を開いたのです(小田原征伐)。

秀吉の動員した総兵力はおよそ20万人ともいわれており、小田原城はもとより、関東全域の後北条氏の城をいっせいに包囲しました。

とはいえ、総構に守られた小田原城を攻め落とすのは容易ではありません。そこで秀吉は、ある秘策を用意しました。それが、世にいう「太閤一夜城 (たいこういちやじょう)」です。

小田原城攻略の秘策「太閤一夜城」とは

「太閤一夜城」とは小田原城を攻囲する際に前線拠点となる陣城で、秀吉は、小田原城から南西3㎞ほどにある笠懸山(かさがけやま)(小田原市早川)の山頂に築城することにしました。関東初となる総石垣の本格的な近世城郭でした。

築城に際して秀吉は、笠懸山の木を伐採せずに工事を進めさせました。敵対し、目前にある小田原城から築城のようすが見えないよう、極秘裏に進めるためです。そして、80日間ほどの突貫工事の末に陣城が完成すると、夜中のうちに周囲の木を伐採。後北条氏側からは、一夜にして陣城が築かれたと見えるよう演出したのです。

こうした状況から、笠懸山の山頂に築かれた石垣山城は「太閤一夜城」、笠懸山は石垣山と呼ばれるようになります。

小田原城の落城による後北条氏の滅亡

眼下に小田原城下を見下ろせる一夜城で、秀吉は茶会や酒宴を催したり天皇の勅使を迎えたりしたといいます。そのようすを見上げる小田原城内の武将や兵士は、いかに士気を削がれたことでしょうか。

結果的に、後北条氏は包囲から3カ月で小田原城を無血開城。5代続いた後北条氏は滅亡し、秀吉は天下統一を成し遂げたのです。

小田原城址公園

住所
神奈川県小田原市城内地内
交通
小田原駅から徒歩10分
料金
入園料=無料/入場料(天守閣)=大人510円、小・中学生200円/入場料(常盤木門SAMURAI館)=大人200円、小・中学生60円/入場料(歴史見聞館【NINJA館】)=大人310円、小・中学生100円/レンタル(甲冑、忍者、お姫様の装束)=大人300円、小人200円/豆汽車、バッテリーカー(子ども遊園地)=80円/自動遊器具(子ども遊園地)=30円/
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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