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村上海賊が瀬戸内海で活躍し海上交通の安全を保障していた 写真:123RF

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日:2022年10月5日

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村上海賊が瀬戸内海で活躍し海上交通の安全を保障していた

古くから交通の要衝として栄えた瀬戸内海。村上(むらかみ)海賊は航行する船から通行料を徴収し、その対価として海上の安全を保障する関所のような役割を担っていました。

村上海賊とはどのような集団だったのか?

村上海賊は、芸予(げいよ)諸島を拠点として活躍した集団です。能島(のしま)を拠点とする能島村上氏、来島(くるしま)を拠点とする来島村上氏、因島(いんのしま)を拠点とする因島村上氏がおり、この3氏が村上海賊と呼ばれています

3氏の中で最も早く史料に登場するのが、能島村上氏です。『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』によると1349(貞和5)年、弓削島庄(現在の越智郡上島町)の荘園領主である東寺が幕府の使者を迎えるにあたり、「能島に酒肴料三貫文を支払った」と記述されています。これは、東寺が能島村上氏に警固を依頼し、警固料として三貫文を支払ったということです。南北朝時代には能島村上氏が瀬戸内海である程度の水軍力を保持し、警固活動を生業としていたことをこの史料から読み解くことができます。

村上海賊のその活動①:「上乗り」と「過所船旗」

それでは、村上海賊がどのように暮らしていたのかをひもといてみましょう。生業の1つとして挙げられるのが、自らの「ナワバリ」を運航する船から通行料を徴収することです。
村上海賊は、船の航路を見張れるような眺望の良い島や岬の先端などに活動拠点となる城を築城。その城から瀬戸内海を航海する船を見張り、航行する船を見かけると「上乗り(うわのり)」や「過所船旗(かしょせんき)」の有無を確認しました。「上乗り」とは、通行料を支払った船に海賊が乗船し、船の警固や水先案内を行うこと。「過所船旗」とは通行手形のようなもので、通行料を支払った船に渡されます。
航行する船から通行料を徴収する行為は理不尽に思えるかもしれませんが、通行料さえ支払えば海上交通の安全を保障してくれる存在でもありました。海路の関所のような存在だったことから、当時は海賊のことを「関(せき)」とも呼んでいました。

村上海賊のその活動②:関所破りの船を攻撃

理不尽な略奪を行うことはありませんでしたが、通行料の徴収で交渉が決裂したり、関所破りが発生したときは、相手の船を攻撃することもありました。
因島村上氏が書いた『武家万代記(ぶけばんだいき)』には、「鉄砲を陸にあげ、船を島陰に待機させる。関所破りをした船が狭い水道を通ろうとするのを狙って陸から鉄砲を撃ち、逃げようとしたところを島陰に潜んでいた船で攻めかかる。さらにホウロクを投げ込んで相手の船を焼き崩した」とあります。

村上海賊は船の中でも小型で小回りが利く「小早船(こはやぶね)」を使用していました。正確な大きさは分かりませんが、小回りとスピードを重視し、連絡や偵察などに使われたと考えられています。「ホウロク」は、相手の船に投げ入れて焼き崩す武器だったと推察されますが、実物が発見されておらずどこで生産されていたのかも分かりません。「紙や繊維などで覆われた火薬玉」という説や、「陶製の容器に火薬や鉄片を詰めたもの」という説もありますが、詳しい事は不明のままです。

村上海賊の能島村上氏が拠点した能島城

能島村上氏が拠点としていた能島城は、周囲約850mの能島と周囲約250mの鯛崎島(たいざきじま)の2島全体を城郭化した海城です。山城などでよく見られる土塁や堀切などの防御設備は見られない、簡素な造りとなっています。時間帯によっては最大10ノット(時速約18km)の潮流が周りを取り巻いていることから海を天然の堀に見立てていたとも考えられますが、潮が止まる時間や潮流が穏やかな時期もあるため、防御力はさほど高くありません。
能島城で特徴的なのは、海岸部の岩礁に開けられた複数の穴です。船をつなぐための柱穴だと考えられており、「岩礁ピット」と呼ばれています。城そのものの防御性より、船が発着しやすいよう海に対して開放的な構造になっていることがポイントです。

能島村上氏は能島城で生活もしていた?

能島城はかつて戦時のみに使われた出城だと考えられていましたが、発掘調査で鍋や釜、すり鉢や水がめといった多くの生活容器が出土。また土錘(どすい)(網につけるおもり)が数多く出土したことから、漁を行いながら日常的にこの島で生活していたことが分かりました。
島の対岸には「水場(みずば)」という地名が残されており、水や食料などはそこから運ばれたと考えられます。来島村上氏が拠点とした来島城の対岸にも「水場」という地名が残っていますが、来島には2008(平成20)年3月に来島・小島(おしま)に海底送水管が敷設されるまで船で水が届けられていました。

村上海賊が芸予諸島を拠点とした理由

瀬戸内海には数多くの島がありますが、なぜ芸予諸島が村上海賊の本拠に選ばれたのでしょう。
理由の1つに、芸予諸島が瀬戸内海を東西に移動する際の最短航路を抑えられる位置にあることが挙げられます。能島村上氏は能島以外にも瀬戸内海各地に拠点として城を設けていますが、その多くは航路を確認できる位置に築城されています。瀬戸内海を東西移動するためには、本州と四国の間に南北に連なる芸予諸島を必ず通る必要があります。芸予諸島の島々は各航路を見張りやすかったため、本拠を構えるのに適していたのでしょう。

村上海賊と大名の関係

能島村上氏は、讃岐国塩飽(さぬきのくにしわく)から周防国上関(すおうのくにかみのせき)(後に秋穂(あいお))までを勢力圏としていますが、その活動範囲は陸の大名の領国内にも及んでいます。
村上海賊は陸の大名の領国内に、通行料を徴収する港・札浦(ふだうら)を設置。瀬戸内海の重要な港に札浦を置くことで収入源を確保しました。一方陸の大名は村上海賊から通行料の免除と航海の安全を保障してもらう代わりに、自分の領国内に札浦の設置を許可。持ちつ持たれつの関係で、互いの権益を守っていました。
札浦を確保するためには、陸の大名と友好な関係を構築する必要があります。村上海賊3氏は同族意識を持ちつつも、それぞれ独立して陸の大名との関係を維持していました。因島村上氏は地理的な関係もあり毛利(もうり)氏との関係が深いのですが、能島村上氏と来島村上氏は毛利氏につくこともあれば敵対することもあり、つかず離れずの関係を保っていました。

村上海賊の3氏と大名の関係は第一次木津川口の合戦以降変化

村上海賊と諸大名の関係が変わってきたのは、1576(天正4)年の第一次木津川口の合戦以降です。
この戦いで村上海賊を含む毛利方の水軍に敗れた織田方は、瀬戸内海の海上勢力を取り込みにかかり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や黒田孝高(くろだよしたか)が村上海賊の勧誘工作を進めます。その結果、因島村上氏はいち早く毛利方につき、能島村上氏も去就が危ぶまれますが最終的には毛利方につきました。一方来島村上氏は、一部の重臣を除いて織田方についています

1588(天正16)年、豊臣秀吉は全国に海賊停止(禁止)令を発布。海賊衆は生業の1つである警固料の徴収を禁止され、自由な経済活動ができなくなりました。能島・因島村上氏は小早川(こばやかわ)氏の配下に組み込まれ、来島村上氏は豊臣大名として自立しました。

村上海賊から水軍として活躍

関ヶ原の合戦後、能島・因島村上氏は毛利氏に従って萩へ入封。萩藩の御船手組(おふなてぐみ)を任され、水軍として活躍しました。特に能島村上氏の2家(村上図書(ずしょ)家と村上一学(いちがく)家)は「御船手組頭(おふなてくみがしら)」に任命され、寄組(よりぐみ)(家臣団の中でも一門に次ぐ家柄)と同列の待遇を受けています。

関ヶ原の合戦で西軍についた来島村上氏は1年ほど浪人しますが、福島正則(ふくしままさのり)(当時の当主・来島康親(やすちか)の妻の養父)の取りなしもあり、豊後国玖珠・日田・速見郡内(現在の大分県玖珠郡玖珠町ほか)に1万4000石を与えられ森藩主となります。2代目藩主・通春(みちはる)のとき、名字を「来島」から「久留島(くるしま)」に変更。以降久留島家は森藩主として、幕末まで存続しました。

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