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平城京への遷都~藤原京遷都から10年後の再遷都。その背景にいったい何があった?

710(和銅(わどう)3)年、元明(げんめい)天皇の治世下で、平城京への遷都がなされました。奈良時代のはじまりです。

藤原京の完成後、わずか10年で遷都した理由については、モデルとした唐の都長安と大きく違っていたからとか、当時の権力者である藤原不比等(ふじわらのふひと)が対立勢力の本拠である飛鳥から都を遠ざけたかったからなど諸説いわれています。真相は不明ですが、陰陽(おんよう)思想に基づく土地の吉相に従い、「天子南面にして背後に山、左右に丘陵を控え、前面に平地が広がり、奈良盆地を見渡せる場所」、つまり奈良盆地北部に新たな都が建設されました。モデルはやはり長安です。

平城京は南北約4・8㎞、東西約4・3㎞で、藤原京よりやや狭い。この京域の東西南北に道路が走り、碁盤の目状に区画されました。北端には長安にならって平城宮(へいじょうきゅう)が置かれ、東西に左京(さきょう)・右京(うきょう)がつくられました。
左京のさらに東に設けられた外京(げきょう)は、不比等の意向が反映されたものと考えられています。ここに藤原氏の氏寺(うじでら)である興福寺(こうふくじ)をはじめ、藤原氏の施設が集中しているからです。
平城京の人口は推定5〜10万人。そのうち約7割は官人とその家族で、庶民は2割程度しかいませんでした。

長安をモデルに造営された平城京

平城宮の大極殿は、平城京の中心的な建物で、天皇の即位、外国使節の歓迎儀式など重要な行事が催されていました。その平城宮の正門にあたる朱雀門は、長安の朱雀門にならったもので、朱雀大路から宮城への入口に位置しています。

平城京全体の形が、東側が飛び出すいびつな形になっているのは、当時権勢を誇っていた藤原氏の氏寺である興福寺があったからといいます。興福寺は中臣(藤原)鎌足が発願した山階寺をルーツとし、平城遷都直後、藤原不比等が現在地に移したものです。この東には藤原氏の氏神を祀る春日大社もあります。

【平城京の従来説】平城京には唐やインドから来日した僧などがいた

平城京の日常については、跡地から出土する木簡(もっかん)を調べるとよくわかります。たとえば、当時の政界で権勢を振るっていた長屋王(ながやおう)の邸宅跡からは、屋敷に届いた食糧の内容などを記した木簡が実に約3万5000点も発見され、贅沢な生活ぶりが明らかになっています。

さらに最近、平城京で外国人が働いていたらしいことが判明しています。その人物は、なんとペルシア(現在のイラン)出身だというのです。

【平城京の新発見】木簡の記録から「破斯清通」というペルシア人が平城京で働いていたとみられる

その内容が記された木簡は、1966(昭和41)年に平城宮跡から出土しました。

役人を養成する大学寮での宿直勤務に関する記録が書かれたもので、文字が薄く読めない部分が多かったのですが、2016(平成28)年に奈良文化財研究所が赤外線撮影したところ、「破斯清通(はしのきよみち)」という名前を確認することができました。「破斯」とは、中国語でペルシアを意味する「波斯」の同義語ですから、ペルシア人の役人が平城京で働いていた可能性が高まったのです。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』よると、736(天平(てんぴょう)8)年に遣唐使が唐人3人と波斯人1人を連れ帰り、聖武(しょうむ)天皇から「李密翳(りみつえい)」というペルシア人に位が与えられたといいます。その人物と破斯清通の関係性は不明ですが、唐の僧鑑真(がんじん)やインドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)などが来日していた当時の状況を考えると、平城京にペルシア人がいたとしても不思議はないのかもしれません。

日本とペルシアはシルクロードを通じてつながっていました。ペルシア絨毯など、平城京には西アジアの文化が流入していました。破斯清通もシルクロードを通って日本にやってきたのでしょうか。

平城宮跡

住所
奈良県奈良市佐紀町
交通
近鉄奈良線大和西大寺駅から徒歩20分
料金
無料

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淡路島の銅鐸、蘇我氏や大王家の古墳など21世紀に入ってからも新発見が相次ぎ、注目を集め続ける日本の古代史。その歴史を解くカギは限られた文献と、神話と出土品のみであるため、未だ解明されない謎が多いのです。
そもそも日本人がどのように生まれたのか、天皇家がどのように誕生したのかも判然としません。

こうした古代史を読み解く上で、もうひとつ重要な鍵となるのが地図。日本人の成り立ちも、縄文人の生活も、地図を読み解くことによって明らかとなります。さらには日本最初の都が飛鳥に生まれた理由や京都盆地が都建設地に選ばれた理由も当時の豪族の勢力圏から浮き彫りに。古代史のトピックを解説しながら、これらにまつわる謎を地図によって読み解きます。

第1章 縄文・弥生時代

【縄文・弥生時代の流れ】 大陸から日本へやってきた人々がクニをつくり各地で戦争を繰り広げる
【日本への長い道】 何のために、どんなルートを通り、日本へたどり着いたのか?
【縄文人の生活】 高度な技術で多様な道具をつくり、危険をおかして遠距離を移動!
【戦争のはじまり】 中国の史書が記す「倭国大乱」はいったいどこで起こったのか?

~クローズアップ古代史~
稲作がはじまったのは弥生時代ではなく、縄文時代だった!
曹操の墓で発見された鉄鏡が邪馬台国の九州説の裏づけになる?

第2章 古墳時代

【古墳時代の流れ】 ヤマト政権による統一が進むとともに各地に築造されていく巨大な前方後円墳
【倭の五王】 中国に使者を送り続けた5人の王 彼らの正体を明らかにする
【巨大古墳の登場】 前方後円墳はヤマト政権のシンボル それが全国につくられた意味とは?

~クローズアップ古代史~
日本最大の前方後円墳は仁徳天皇の陵墓でない!

第3章 飛鳥時代

【飛鳥時代の流れ】 朝鮮半島から日本へ仏教が伝わり、中大兄皇子のクーデターで大化改新が実現
【崇仏論争】 仏教を受け入れるか拒絶するか……激化する蘇我氏と物部氏の争い
【大化改新】 天皇中心の中央集権体制を目指し、新政権がいよいよスタートを切る
【天武天皇の政治】 律令体制が次第に整い、日本がようやく「国」になった!

~クローズアップ古代史~
聖徳太子が建立した法隆寺の現在の建物は再建されたもの?
大化改新は虚構ではなく、確かに大きな改革が行われていた!

第4章 奈良時代

【奈良時代の流れ】 政争や疫病などの社会不安が相次ぐなか、平城京に律令体制の中央集権国家が完成!
【遣唐使派遣】 命の危険をおかして中国に渡った留学生たちが唐で得たものとは?
【聖武天皇と鎮護国家】 仏教で社会不安を鎮めようとした聖武天皇の篤き願い
【平安京遷都】 長岡京の建設中に決まった平安遷都 なぜ桓武天皇は心変わりしたのか?

~クローズアップ古代史~
平城京では「破斯清通」という名のペルシア人が働いていた!?
奈良時代の人々も知恵を絞ってさまざまな疫病対策を試みていた!

[監修者] 瀧音能之(たきおとよしゆき)

1953年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒、博士(文学・早稲田大学)。
現在、駒澤大学教授。日本古代史、特に『風土記』を基本史料とした地域史の研究を進めている。主な著書に『風土記と古代の神々』(平凡社)、『古代日本の実像をひもとく出雲の謎大全』(青春出版社)、『出雲大社の謎』(朝日新聞出版社)などがある。

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