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山崎の戦い:素早い決断と根回しで7日間で畿内へ舞い戻った秀吉

天正10年(1582)6月、羽柴秀吉は、備中高松城の水攻めの大詰めを迎えていました。そこへ突如、本能寺の変の悲報が飛び込んできます。驚き嘆く秀吉だが、彼は参謀の黒田官兵衛(くろだかんべえ)(孝高(よしたか))に促されすぐに畿内へ戻ることを決意します。

すぐさま毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に接触し、信長の死を隠したまま、講和交渉を開始しました。

講和は翌日に成立。備中高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の切腹を見届けて6日に高松を発った秀吉本隊は、1日平均80㎞を駆け、8日に姫路に到着。11日には尼崎、12日には富田に到着と電光石火の「中国大返し」を敢行(かんこう)。わずか7日間で畿内に戻り、13日には光秀と山崎の戦いに挑みます。

山崎の戦い:織田家の先輩家臣や信長の子を従えて戦った秀吉

しかも秀吉は、信長の息子や重臣を味方に引き入れ、4万の軍勢を擁(よう)していました。これに対し、諸将の協力を得られなかった光秀方は1万3000。驚異的な速さで畿内に戻った秀吉を前に、光秀は準備不足のまま決戦に追い込まれました。

昼過ぎに始まった戦いは、当初、明智軍がわずかに優勢でしたが、兵力に余裕のある秀吉軍が、予備隊を投入。池田恒興(いけだつねおき)らの部隊が、明智軍側面に攻撃をかけたことで、戦況は一変。さらに参陣が遅れていた織田信孝(のぶたか)や丹羽長秀(にわながひで)の部隊も秀吉方に加わったことで、勝敗は決します。

光秀は本拠坂本城に落ち延びる途中、小栗栖(おぐりす)にて落ち武者狩りに遭い、命を落としました。

戦国の豆知識:山崎の戦い

天王山は古くから交通の要所であり、山崎の戦いの際、この山の占有が勝敗を決したといわれています。ここから、勝負を決する大事な場面や分岐点を「天下分け目の天王山」というようになりました。

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【〝北条早雲〟の伊豆制圧―1493年】
地図:北条早雲の台頭を許した関東の情勢(北条早雲の関東進出の戦略がわかる)
【鉄砲伝来―1543年】
地図:火縄銃の波及(種子島に伝来した新兵器が多方面に広まっていく様がわかる)
【三好政権―1549年】
地図:三好政権の支配地(信長以前の畿内を支配した政権のしくみと失敗の構造がわかる)
【キリスト教伝来―1549年】
地図:イエズス会の布教体制(教区)(カトリックの布教体制とキリシタン大名の関係がわかる)
【桶狭間の戦い―1560年】
地図:合戦後の東海情勢(義元没後に起こった今川家崩壊の過程がわかる)
【第4回川中島の戦い―1561年】
地図:疑問だらけの大会戦(川中島の戦いに関する通説のウソがわかる)
【堺の降伏―1569年】
地図:堺の硝石と金(信長が畿内進出後真っ先に堺を押さえた理由がわかる)
【長篠の戦い―1575年】
地図:長篠の戦い戦況図(武田軍を鉄砲の前へ誘き寄せた信長の高度な戦術がわかる)
【大坂の夏の陣―1615年】
地図:徳川軍の進軍経路と大坂の陣(なぜ大坂城の南側が戦場となったのか?がわかる)

『地図でスッと頭に入る戦国時代』監修者

小和田哲男(おわだてつお)
1944年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。現在、
静岡大学名誉教授。(公益財団法人)日本城郭協会理事長。専門は日本中世史。著書に
『家訓で読む戦国 組織論から人生哲学まで』(NHK 出版)、『戦国武将の生き方死に
ざま』(新人物往来社)、『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉』(ミネルヴァ書房)
など多数。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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