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八郎潟の干拓と大潟村の歴史~かつては大湖だった!?

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月17日

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八郎潟の干拓と大潟村の歴史~かつては大湖だった!?

オランダの技術協力の下、日本の技術力を結集し、最大50mのヘドロが堆積した超軟弱地盤に築堤。
日本第2の湖は20年に及ぶ干拓事業でモデル農村になりました。

八郎潟と開発計画

琵琶湖に次ぐ国内2位の広大な湖だった八郎潟(はちろうがた)。最深部で約5mと浅く、湖底が平坦なので、何度も開発計画が持ち上がっていました

江戸時代の篤農家・渡部斧松(わたなべおのまつ)、大正時代の農商務省技師・可知(かち)貫一、昭和初期の内務省仙台土木出張所長・金森誠之(かなもりしげゆき)などの案が有名です。

第二次世界大戦後の1948 (昭和23)年には、仙台農地事務局の農林技官・狩野徳太郎らが立案。同時期、連合国との平和条約締結に向け、オランダに賠償金がわりの技術協力費を支払い得る大規模事業が求められ、八郎潟計画が浮上しました。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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