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【日本の洪水被害:福島県】氾濫を繰り返す阿武隈川は「暴れ川」の異名も持つ

奥羽山脈と阿武隈山地のあいだを縫うように北上し、宮城県岩沼市内で太平洋に注ぐ阿武隈川は、長さは239㎞の一級河川。大雨のたびに氾濫し、大水害を引き起こす「暴れ川」としての顔をもっています。古くは大水のたびに川の流れが変わり、田畑の境界を巡る争いも起こしました。

阿武隈川の氾濫・洪水対策として建設されたダム

治水(洪水調節)と利水(発電など)を兼ねた多目的ダムとして、阿武隈水系には七ヶ宿ダム(白石川)、三春ダム(大滝根川)、摺上川ダム(摺上川)の3基が建設されました。

しかし、水害との戦いは今も続いています。記憶に新しいところでは、2019(令和元)年に東日本を襲った「令和元年東日本台風(台風19号)」があります。特別警報級の記録的大雨となり、流域全体に甚大な被害が出ました。

今後は地球温暖化などによる災害の激甚化が懸念されています。築堤や河道掘削などのハード整備だけではなく、町づくりのあり方や避難行動計画の策定、防災訓練などソフト面の充実、流域ぐるみの防災・減災対策が望まれます。

【日本の洪水被害:長野県】千曲川の歴史上最大の水害「戌の満水」

日本最長の一級河川である全長367㎞ の信濃川のうち、長野県域部分を指す全長214㎞が千曲川です。たび重なる水災を防ぐため、改修工事が進められてきました。

千曲川流域のなかでも川幅が狭まる立ヶ花は大雨が降ると水が溜まり、昔から水害の多発する地域でした。2019(令和元)年10月の台風19号の被害も記憶に新しく残ります。千曲川最大の水災とされる1742(寛保2)年8月の「戌(いぬ)の満水」では、千曲川と支流は大洪水となり、山崩れなども引き起こしました。多くの村が壊滅し、死者は2800人に及んでいます。田畑も大きな被害を受けたため、松代藩の財政は困窮し、影響は明治まで続いたとされています。「善光寺平洪水水位標」(長野市)の洪水位の高さを見ると、その被害の甚大さがわかります。

千曲川の洪水対策としての治水工事

1918(大正7)年、第1期千曲川改修事業がスタートし、旧堤(きゅうてい)が再築堤され、洪水調整に使われた不連続の霞堤(かすみてい)は連続堤防になったほか、多くの地区で旧堤の嵩上げや拡幅(かくふく)などを実施しました。支流が流入する地点では、逆流を防止する水門や樋門(ひもん)などの施設も整備されました。

1941(昭和16)年の完成までには23年の歳月を費やし、総工費は約1000万円(当時)に及びますが、千曲川は上田~ 立ヶ花の57.5㎞ 、飯山~上境の10㎞ 、犀川は両郡橋(長野市)~千曲川合流点の10㎞ が堤防で結ばれ、現在の千曲川の基礎が固まりました。
1949(昭和24)年には第2期改修工事が始まり、1965(昭和40)年には新しい河川法の制定により、堤防や多目的ダムなど治水、利水のための基本施設の建設が進められることとなりますが、いずれも工事の途中で大洪水に見舞われ堤防決壊の被害に遭うなど、改修事業は困難を極めました

【日本の洪水被害:宮城県】北上川、阿武隈川

宮城は雨による水害が多い地域です。北上川、阿武隈川など長大な河川では、上流で降った雨が短時間で遠く離れた平野部まで達し、洪水を発生させます。

戦後まもない1947(昭和22)年のカスリン台風、1948(昭和23)年のアイオン台風は甚大な被害をもたらし、北上川の治水が包括的に見直されるきっかけとなりました。以後、改修が重ねられ、浸水被害は格段に減少しつつありました。

今後も被害想定の見直しが必要とされる

しかし、2019(令和元)年10月の台風19号では、堤防の決壊が相次ぎました。川の水が堤防を乗り越える「越水(えっすい)」の状態が長時間続き、堤体が破壊されたことが原因とみられます。特に阿武隈川では、台風が流域の広がりと平行に進んだことで水かさが増え続け、支流が本流へ流れ込めずに溢れかえる「バックウォーター現象」が起きた可能性が指摘されています。

気候変動も踏まえ、今後は被害想定の見直しやさらなる防災対策が必要になりそうです。

【日本の洪水被害:愛知県】豊川の用水整備

愛知県を流れる豊川は流路が短いうえに大部分は山間部の谷間を流れており、下流域で川が蛇行していることなどから、たびたび洪水を起こす水害の川でもありました。

江戸時代には、今橋(現・豊橋市今橋町) にあった吉田城の城下町を洪水から守るため、中下流域には霞堤(かすみてい)がつくられています。霞堤は不連続な堤防で、堤の切れたところから一時的に水をあふれさせ、下流域を洪水から守るしくみです。

しかし豊川は、昭和時代になってもなお洪水を繰り返し、流域の農地開拓が進むにつれて、被害は甚大になりました。こうして豊川の根本的な洪水対策が急務となり、下流部に放水路をつくり、洪水のときに水量の調節を行うという計画が立てられました。

豊川放水路の完成で洪水被害を大幅軽減

こうして1938(昭和13)年から27年間、途中、太平洋戦争による6年間の中断を経て、1965(昭和40)年に完成したのが全長6.6㎞の豊川放水路です。このとき霞堤は1960年代には9カ所ありましたが、豊川放水路の完成で豊川右岸の5つは完全に閉め切られました。もちろん、地域の洪水被害は格段に緩和されることになったのです。

【日本の洪水被害:新潟県】信濃川、阿賀野川

新潟県に広がる越後平野は、今でこそ広大な農地や、多くの人々が暮らす居住地域を形成していますが、その開発の歴史は河川氾濫との戦いそのものでした。いかにして洪水を防ぎ、土砂を防ぎ人々が暮らせる土地をつくり出したのか。開発が本格的に始まったのは江戸時代初期のことでした。

洪水被害から守るため開発された大河津分水路

その開発事業が順風満帆に進んだわけではありません。1730(享保15)年に始まった松ヶ崎掘削では、阿賀野川の分離工事が行われたものの、洪水により分水路が本流となるなどその後も洪水は絶えず人々を苦しめました。そして、現存する大河津分水路(おおこうづぶんすいろ)が完成するまで、じつに200年もの年月を要しています

川の氾濫による被害は、土地をだめにする水害だけではありません。水はけの悪い土地に溜まった水はやがて腐り、コレラやチフスなど恐ろしい伝染病の温床にもなっていました。大河津分水路が完成する以前、この地の人々は洪水、土砂災害、そして疫病といったさまざまな災害に苦しんでいたのでした。

【日本の洪水被害:福岡県】筑後川

筑後川は別名「筑紫次郎」と呼ばれ、関東の「坂東太郎」(利根川)、四国の「四国三郎」(吉野川)と並ぶ日本三大暴れ川です。室町時代からの記録によるとおよそ300年の間に160回以上、実に2年に一度以上のペースで氾濫が起こり、流域に住む住人は常に洪水との戦いでした。こう述べると、災害のないときは水が豊かな土地であるように思えますが、筑後川沿いの多くは土地の方が高く畑に水を引くことができず、大豆や粟、稗(ひえ)しか育たないような荒れ地だったのです。

築後川の洪水を食い止める! 筑後川四大堰の建設

17世紀後半から18世紀にかけ、流域住民は筑後川の水を利用して新田開発を行い、暮らしを豊かにしようと考え、筑後川四大堰を相次いで建設しました。現在も稼働している山田堰大石堰、昭和29(1954)年に完成した夜明ダムによって水没した袋野(ふくろの)堰、そして5人の庄屋によって造られた恵利(えり)堰です(床島堰、佐田堰と合わせて床島堰と総称することもある)。

筑後川の洪水と利水についての詳しくはこちらの記事へ

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